二〇一三年の今年、この日本では、ラファエロを皮切りに、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと、ルネサンスを代表する三大巨星の展覧会が、催されることになったのだから驚く。
レオナルドの方は、四月下旬から六月末まで東京都美術館で、「アンブロジアーナ図書館・絵画館所蔵」と断り、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展―天才の肖像』と名乗って催された。 そのレオナルド展の折、チラシを介して、ミケランジェロの方が、九月初旬から十一月半ばまで、ラファエロ展と同じ国立西洋美術館において、「システィーナ礼拝堂500年祭記念」と注し、『ミケランジェロ展―天才の軌跡』と銘打って開かれることを知った。
何と、この二人は、ラファエロの場合には用いられなかった「天才」の語をもって、特別待遇されていたのである。
私は、五月三十日に、その「天才」の一人、レオナルド・ダ・ヴィンチに会いに行った。入館時に雨が降っていたが、その天候に相応しく、その展覧会は、素直に鑑賞の喜びを齎してはくれず、私を鬱懐におとしめるものとなった。
それは、『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』と唱えながら、彼の作品と呼べるような作品に始ど出会えなかったことによる。
先に観覧の喜びを記したラファエロ展でさえ、ラファエロの作品は、出展六十余点の三分の一に過ぎなかった。そして、それを致し方のない当然と納得していた私には、レオナルド展に、レオナルド当人の作品が少ないであろうことは、予測されていたことだが、ここまで侘しくなろうとは。正直私は虚脱した。何しろ、百九点の出品中、レオナルドの描いたものは二十三点で、点数上は致し方ないとしても、完成した絵画作品は油彩画「音楽家の肖像」一点しかなく、残りの二十二点は、全て二、三十センチの紙にインクで記されたもので、「複数の弩を装備した歯車の素描」と「鏡の旋盤加工あるいは研磨 のための機械的装置」の素描二点以外は、落書きに等しい部分的な図形やメモを書き記した雑記類で、作品と呼べるもの では全くなかったのである。なるほど、レオナルドの手稿は、二冊の「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」として岩波文庫にもなっているほどの、彼の幅広い知的科学的関心や思考を伝えるものなど、その記録が美術的にも歴史的価値の大きいものと評価されていることは、知ってはいても、私には、出展作品の無さを、レオナルドの日常をほの見せるための真筆資料の若干の展示で誤魔化したものにしか思われないのだ。そこには彼の所蔵した書籍の十冊程までが展示されもしていたが、イタリア語もラテン語も不案内な私にとっては、ガラスケースの中の本などに有り難みなどさらに起らず、私のような美術展観楽主義者にとっては、楽しみを殺ぐこと著しい、お陀仏ならぬ愚駄物だった。
最早、「天才」の語は、私のような観客大衆を招来するための、羊の看板を掲げて狗の肉を商うに等しい、客寄せ語に過ぎなく見えてくる。
それはさておき、たった一点しかない、レオナルドの油彩画「音楽家の肖像」は、四O×三〇センチもない小さな作品だったが、特別に仕切って作られた赤い壁面に、金色の額に納まって掛けられており、流石にこの前では、多くの人が首を前に差し出して佇み見ていた。そして、流石にこれは、首を長くして見る値打ちを充分に持つ傑作だったのである。
描かれている音楽家の顔貌が魅力的だった。その顔貌の魅力は、流石レオナルドと言わざるを得ず、先に肖像画家として捉えたラファエロが描いた肖像のどの一点もが、その写実性において、小さなこの音楽家の肖像には達していないように思われた。
モデルの、中年を迎える年頃の男性の音楽家は、譜面と見える紙を右手で胸先に持ち、黒い服に褐色のチョッキを纏い、巻き毛の長髪の頭に赤い縁なし帽を被って右手を向き、視線をその右手に放って描かれている。バックは真っ黒で、黒の深みの中に音楽家の半身、特にその顔が浮き上がっている。
それを見て、私は、ラファエロ展で出会ったラファエロ作の肖像画群を思い出した。特に、その「大公の聖母」や「無口な女」の黒をバックにした作が、肖像画としての、深みを持ったラファエロの傑作に思われたものだが、その肖像画としての素晴らしさは、今目の前にあるような、レオナルドの作品の描き方を学んだ上での結果だったように思われてくる。
しかも、眼前のレオナルドの絵に比して、ラファエロの肖像画に、ある若さを、まるで彼の純真さを孕むもののように感じたのは、その肌の表現が、レオナルドのような徹底した写実に至っていない幼さによるものであるように見えたのである。それほど、この音楽家の顔は、中年の肌の皮膚感、手触り感が感じ取れる写実性を備えていたのだ。そして、ひょっとして、モナリザの女性のミステリアスな表情の効果も、決して娘を想わせない彼女の顔の肌の描写に負うていたのではなかったか、と、想わせられたりもした。
何はともあれ、ラファエロの絵の回想を介して、私は、レオナルドの絵が大人の絵であることを納得した。と同時に、こういう出会いができたのだから、ありがた涙に合掌しなければならぬのかもと皮肉に思うほど、迷執に堕ちた。
その迷執から抜けるには、レオナルドの作品以外の出展作品に、私の目を憩わせる作品を求めるほかなかった。そしてその救いの作品に、私は出会うことができたのである。
その一つは、展覧会場の初めにあった、二×一メートル位の大きさの、ヴェスピーノの「岩窟の聖母」だった。「岩窟の聖母」と言えば、レオナルドの代表作で、人物・背景共に相似た構図の、ルーヴル美術館のものとロンドンのナショナル・ギャラリーのものがあるが、これは、それを模したものであることが忽ち納得できる作品だった。しかし、その油彩の色の地が、レオナルドへの親しみを喚起する気持ち良さを持っていたのである。
その近くには、もう一点、ロンバルディア地方のレオナルド派の画家の作とされる、若い貴族の女性の美貌を、真横から描いた「貴婦人の肖像」があった。それは、カラー写真もここまで深い陰影をもって美しく写すことは叶わないと思われるほどの、繊細細密な描写で、詩的雰囲気を湛えた、横顔肖像画の傑作だった。その詩情が、黒を背景にして着衣の臙脂と黒のコントラストの中に、鼻筋の美しい横顔を浮上させている造形に発していることがよく分る。それは間違いなくレオナルドの「音楽家の肖像」のバックの黒を生かす手法に倣っており、その点ではラファエロの黒いバックより、バックの黒そのものが、艶やかに生きているようにさえ感じられ たものだ。
油彩画では、後は、レオナルドの工房などに関わり、その影響を受けたレオナルデスキと呼ばれる画家たちの作品が七点あったが、そこにレオナルドの模倣的な影響を読むことはできるものの、私の気に入る作品は一点もなかった。いたずらに落胆の増幅を招くものばかりだったのである。僅かに、ベルナルディーノ・ルイーニの一メートル位の大きさの「聖家族と洗礼者聖ヨハネ」は、ヨハネを登場させたことで画面の落ち着きを壊してしまっていたが、マリアとアンナの二人の女性の顔立ちが、レオナルドらしい優しさを表していて少し癒しをくれた。
それよりも、二十センチにも充たない大きさの、彩色も少ない水彩画でしかなかったが、イタリアに美術学習をしたデューラーの「農民のカップル」と題する一点が出ていて、その身を寄せ合って立つ若い百姓の姿は、優雅な美を主眼とする他の展示作品からはまるで遠い、滑稽をさえ感じさせたが、いかにもデューラーらしく、私に微笑みを齎した。
そして、この一点が、本展覧会の内容に対する、展覧会自らが行っているアイロニーのように思われ、そこが、心満たされかねている私にとって、多少の救いになったのである。
この後、私は、東京芸大美術館へ向かった。そこでの『夏目漱石の美術世界』展を見んがためである。この展覧会の題名を聞いただけで、その内容があれこれ予想され、それが私を裏切らない、漱石への親しみを再確認、増幅させるものになるであろうと、予見されていたのだ。そして、この予見の実現が、その日の展覧会見て歩きの憂さの一切を、私から払拭してくれたのである。
その展覧会は、序章から第七章まで八つのパートに分けて飾られた百九十二点を、三階から地下二階へと二つの展示階を辿って見ることになって、疲労感は避け難くなりはしたものの、見終えた時の喜びは、その疲労を充分にカヴァーしてくれるものだった。
まず、英国留学体験もあって、「坊ちゃん」で赤シャツが語る傘のように開いたターナーの松の絵(「チャイルド・ハロルドの巡礼」のような)、「薤露行」に登場する、ウォーターハウスの有名な作品「シャロットの女」、「倫敦塔」に利用された、エヴァレット・ミレイの「ロンドン塔幽閉の王子」、「三四郎」で三四郎が美禰󠄀子と見る、これまたウォーターハウスの傑作「人魚」、「文学評論」で紹介している、ウィリアム・ホガースの風俗的風刺的版画「選挙」中の「候補者の饗応」や「当世風の結婚」中の一点等、イギリスの画家たちの作品が招来されてきており、私には、特に過去にラファエル前派の展覧会で観たこともあって、ウォーターハウスの二点の、その物語的浪漫的な油彩美が懐かしかった。 日本画では、「草枕」に使われている伊藤若冲の水墨画の「梅と鶴」や、長沢蘆雪の重文に指定されている「山姥図」、「虞美人草」に出てくる酒井抱一の銀屏風「虞美人草図屏風」、「門」に引かれている酒井抱一の「月に秋風図屏風」、「こころ」で先生が語る渡辺崋山の「邯鄲」に当たる「黄梁一炊図」といった物から、「草枕」の世界を、松岡映丘が、山口蓬春や山本丘人、小村雪岱といった弟子たちを集って造り上げた「草枕絵巻」三巻、「三四郎」で三四郎が美禰󠄀子に案内されて観る吉田博、ふじを兄妹の「ヴェニスの運河」の街景を描いた作品三点、「それから」の代助が観た青木繁の「わだつみのいろこの宮」(重要文化財)とその下絵や下図等が展示されていた。
私には「草枕」の絵巻は初見で興味深く、中でも山本丘人 の「水の上のオフェリア」は、ジョン・エヴァレット・ミレイの有名な「オフィーリア」を模した作りになっていて面白かったし、吉田博の「ヴェニスの運河」2点の油彩画も、やはり初見でその濃密な着彩が面白かった。久しぶりに観る「わだつみのいろこの宮」も、改めて見事な出来振りに感服である。次ぎには、漱石の美術評論「文展と芸術」(注1)に取り上げられた作品が並ぶ。酷評を下している今尾景年の「躍鯉図」や木島桜谷の大作「寒月」や安田靫彦の「夢殿」、それぞれにそれなりの評価を与えている今村紫紅の「近江八景」(重要文化財)、寺崎広業の「瀟湘八景」、横山大観の同じく「瀟湘八景」(重要文化財)の、計二四図の八景図が続いた。一方、洋画の方では、和田英作の「H夫人肖像」や黒田清輝の「赤き衣を着たる女」や中村不折の「巨人の蹟」が否定的評価の作品として出ており、好評に遇された物として、坂本繁二郎の「うすれ日」、石井柏亭の「チョチャラ」、朝倉文夫のブロンズ彫刻「若き日の影」等が展示されていた。
こうした中で、私は、紫紅と大観の八景図に再見出来た喜びは大きく、どちらにも共通し、それぞれに個性的な、その大気の包む空間の広がりの造形に、改めて引き寄せられたし、初見の英作の夫人像、不折の、こちらに歩く裸の巨人と、その後ろに歩く半裸の女性を描いた「蹟」の重いイメージを残す絵、文夫の、逞しさの全くない若い男性の瑞々しい裸身のブロンズ立像は、なかなかに魅力的だった。
併せて、漱石が論評の対象にした、こうした画家・彫刻家たちと同時代の、漱石の見聞したであろう二十点程の作品が展示されていたが、その中で、萬鉄五郎の「女の顔(ボアの女)」や、青木繁の「輪転」・「運命」や、藤島武二の「夢想」等に出会えたのも、私を快適にした。
その後、「親交の画家たち」と括って、津田青楓、浅井忠、橋口五葉、中村不折の作品が三十点近くあったが、そこには重文になっている浅井忠の有名な「収穫」があり、青楓のでは、二点の水墨画の「夏目漱石像」と軸仕立てになっているやはり水墨画の「漱石先生読書閑居之図」があり、五葉のでは、雑誌『ホトトギス』の何点かの表紙絵、「孔雀と印度女」「ペリカン」の二点の、二枚折に仕立てられた衝立画があり、不折では、その出版に当たり、友人としての漱石が、序文や巻頭詩を寄せた本、『不折俳画』や『不折山人丙辰溌墨』があって、最後に正岡子規の漱石宛の「あづま菊」の句を記した俳画一通が添えられていて、「収穫」以外はどれも興味をそそられるものだった。
そして、その後には、漱石自身の描いた、軸仕立ての彩色された山水画や水墨画十五点と漢詩や自詩を行・草の墨筆で揮毫した軸五点が展示され、漱石の美術家振りが紹介されていた。書の軸は、筆の運びも勢いも相当なもので、感服の至りだが、絵の方は、真面目な幼さが構図にも彩色にも著しい、それだけに、漱石の名の手前微笑ましくなるものばかりだった。
最後は、漱石の著書についての、橋口五葉の装丁画や扉絵、中村不折の挿絵が多数並んでいたが、『こころ』については、漱石自身が造った表紙と扉と見返しと本のケースの原画が出ていて、漱石の自著に対する関心の積極的な深さを感じることができ、面白かった。(注2)
それにしても、この観て歩きは、作者の名前とその作品名を羅列するだけに終始したことになるが、つまり、それほどに多様な芸術家たちと多様な美術世界に、漱石が如何に広く関わっていたか、そしてそれあって、漱石の文学の世界が、漱石らしく結晶することになったかを、こちらに伝える展覧会であったということだ。改めて、見せつけられた漱石の幅広い芸術的知の増殖ぶりに、今とは比較にならぬ不便な時代だけに、輝く眩しさを私はきらきら感じていた。
疲れたが、私は今日の救いを得て安らいだ。カフェのコーヒーに憩いたくなる。
(二〇一三、六、一三)
注1『東京朝日新聞』に、一九一二(大正1)年、十月十五日から二十八日まで掲載された。「文展」は、一九〇七(明治四〇)年に創設された「文部省美術展覧会」の略称である。
一九一九(大正八)年、帝国美術院が創設され、「文展」は、以後そこに引き継がれ「帝展」となる。現在の「日展」はこの流れの上に立つものである。
注2 その表紙の装丁原画は、赤い地に、石鼓文(紀元前七百年ころの東周時代、波形の石に刻まれた、狩猟をうたった韻文)の一節の配列文字を図案として用いたもので、これが、その後の漱石全集等の、今日すっかり馴染みとなった表紙絵として生かされているのである。