五月三十一日、朝、渋谷のホテルの二十五階のレストランで、ビュッフェ・スタイルの朝食を、展望を楽しみながらゆっくりとった。十時過ぎにチェックアウトをし、坂上の東急百貨店奥の、Bunkamuraザ・ミュージアムに向かった。「現代スペイン・リアリズムの巨匠」と銘打った『アントニオ・ロペス」の展覧会を観るためである。
アントニオ・ロペスというスペインの画家など、これまで何も知らず、我が国に彼の作品が極めて紹介されるのも初めてのようだが、「日曜美術館」が紹介していた何点かの彼の作品が、私にはひどく気掛りになっていたのだ。テレビに映された、彼の現実の写実的表現と言えば言えるその作品が、どれも美しいとか面白いとかの言葉の範疇に収まらなかったからであると、言えばいいか。
ともあれ美術館のある地階に降りて、入口でチケットを買い、ロッカーにカバンを預けて会場へ入った。
まず最初に、「故郷」という言葉で括られた作品八点に出会う。
どうやら、ロペスが故郷で過ごした初期の作品らしい。会場の冒頭に記されていた案内によれば、アントニオ・ロペスは、一九三六(昭和一一)年、スペインの首都マドリッドの南方二百キロ程の農作地帯に囲まれたトメリョンという小さな町で生まれたらしい。一九三六年といえば、私より四歳年下にはなるものの同世代となる。
ところで、スペインの生んだ近代の画家といえば、ピカソ、ミロ、ダリということになろうが、これら三人は、二〇世紀前半の、第二次世界大戦の終わるまでに、いずれもシュールリアリズムという観念に発する表現を通じて、それぞれの名を成した。しかし、その二〇世紀の後半、大戦後のヨーロッパの、民主的に安定していく、平和な時代の中で登場したペスは、先の先輩たちとは全くの、アンティシュールとしてのリアリズムの表現を貫いてその名を成したようである。
絵は「パチンコを撃つ少年」から始まる。家の屋上ーーそこからは町の家々の屋根や塔が見遥かせるーーに立つ少年が、背も伸びやかにパチンコを晴れた町の空に向けて放たんとしている絵だ。空には鳥が黒く何羽か飛び、少年の足元の床の右端には、倒れている、少女か少年か定かならぬ者の肢体が見える。屋上からの展望としての風景画はよくあることだが、屋上その場の光景を描いた作品は、私にとっては初めてに等しく珍しい。一九五三年の作だとあるが、とすればロペス十七歳ということになり、その少年は、倒れている者も含めて、ロペス自身を描いたものだと読める。
続いて同じ年に描かれ、同じように屋上の光景として作られた「飛行機を見上げる女」という、パチンコ少年の作品より大きい作品が登場した。屋上にいる女子供たちを背に、椅子に掛け、手足諸共、文字通り仰天している頭巾を被った女の姿が、暖色支配の跳ね上がる色彩リズムで描かれていて面白い。
次いで「花嫁と花婿」。右腕を軽く上げてこちらに挨拶を送っている、白い晴れ着の花嫁を、鼻下に髭のあるシルクハットの花婿が、籐の椅子に膝の上に抱きかかえるようにして掛けている、これも一メートルを越える作品だ。そのどちらもが三十路に入ったように見え、瑞々しい若さから遠く離れて描かれている。その二人の左側には、弦楽器や酒瓶や西瓜やグラスなどでゴチャゴチャに溢れた机と、その奥のベッドが、混雑よろしく描かれていて、その整頓のない図柄が持つ面白さは言うまでもなく、その色彩、筆刷けも、描かれた現実の場が持つザラザラした接触感を生々しくこちらに齎していた。それは、対象の実体感を出すために、絵の具を厚塗りタッチで画面に凹凸を齎して筆を捌く、マチェールの手法とは違っていた。ザラザラ感は、筆刷けによる絵の具の凹凸を画面にはっきり見せることで生じたものではなかったのである。
このザラザラ感の描き方は、このコーナー最後の、「フランシスコ・カレテロ」という、中折れ帽を被り三つ揃えの背広を纏って、こちらに向けて大きな掌を上げているメガネの老神士像にも、その顔立ち共々際立っていて、不思議な魅力でこちらを引き付けた。
この、マチエールとは言いかねるザラザラ感の写実表現法は、どうやら二十代半ばまでに達成されたようである。
その二十代の作品で、ロペスの家族の夫婦の胸像を、右に男、左に女の並びで描いた、六〇X八〇センチぐらいの大きさの三点があったが、顔の部分はそれを避けた筆刷けだが、着衣や背後の壁面などは、その筆刷けのザラザラ感が、決して常識的な美しさではなく、選ばれた身の上でない者の平凡さを、如実に表現し出して生彩を放っていた。中の一点は、ロペス自身の夫婦像だったが、黒っぽい服装の妻を、派手ではない実直な美しさに描いているのに対して、背広姿の自分は、写真のぶれた映像のように揺れ暈して描いていて、妻の眼差しは、それをきちんと受け止めて描いているだけに、妻への愛深きロペスのはにかみがほの見えて微笑ましくなった。
この妻「マリの胸像」(高さ四〇センチぐらい)と「見上げるマリア」(高さ七〇センチほどの立像)のブロンズ彫刻 が、この肖像画のコーナーにはあったが、妻や娘に対するロペスの愛情が、何の飾りも仕草も持たぬ質素な作りに見事滲み出ていて、優しい美を湛えていた。とりわけ娘マリアについては、七〇×五〇センチ程の紙に鉛筆で描かれた「マリアの肖像」という地味な一点があって、それは、中学の制服のような黒いコートを着た、身を飾るもの何もつけぬ、顔を固めて雌をこちらにしっかり見開いた立ち姿が描かれていて、描かれる娘の緊張と、それを装う事ない素の姿で描こうとするロペスの心情とが、鋭くこちらを射込んでくる、鉛筆画ながらの傑作だった。
こういう「故郷」や「家族」を扱った作品群の次ぎには、彼の「静物画」が纏められていたが、その「植物画」では、マルメロの黄色い実のついた枝、幾つかの花をつけた薔薇の枝、紫の菫の束の、私が水彩画だと錯視したほどの、淡彩の油彩画が、その鉛筆によるスケッチと併せて並び、それがたとえ小銭稼ぎのためだったにしろ、ロペスの写実の腕の、大衆に受け入れられやすい軽やかな一面を示していて、油彩画人物の登場する室内の、「食器棚」は、棚に納められた陶磁器やガラス製品、レース網の布などが、例のざらざら感覚で描かれ、棚の後ろに彼の妻マリアの肩から上が、描き添えられており、「室内の人物」では、壁に掛けられた額の鏡ーーそこには裸電球とそこから白いコードが下がる廊下、壁面のハンガーに無造作に衣装の掛かった室内が映っているーーの脇に、こちらに視線を注ぐ妻マリアの上半身だけが描かれている。しかも、この掛けられた鏡の右にはドアの開いた戸口が描かれ、その外に、訪問者の夫婦と思われる中年の男女が、室内に目を遣る驚愕の表情をみせて描かれており、その 左の陰の部分に、今一人背広姿の男性が窺える。しかもこの三人は、マリアのように胸先で消える事なく、全身が描かれているミステリアスな奇妙さを漂わせていた。つまり、作品のこの不思議こそが、彼のざらざら感になっているとわかり、してみると、彼のざらざら感は、対象である現実に対する見えない不思議の表現だと思われてくる。
半身の消えている妻のマリアの姿は、たとえ「食器棚」の傍らや「室内」に居なくても、紛れもなくそこにいる、それなくしては「食器棚」も「室内」もありえない、意味を持たない、そういう存在の表現なのだ。そう見える。
さらに「眠る女(夢)」と題した作は、一×二メートル以上の大作で、ベッドに、片方の乳房を露に胸をはだけて眠る女の表現が目を奪った。女の身の丈は実物大の大きさに描かれているが、これの凄いところは、大きな板に浮き彫りをして、それに重い彩色を施した彫刻的絵画作品だということだ。黒い年期の入った木造りのベッドに、女の纏う使い古された地厚な黒っぽいシーツ、白地の筈だが、使い古され汚れの染みた、女の敷くシーツと枕、ベッドの向こうの椅子に脱ぎ掛けられた女の衣装、その背後の汚れて傷のある壁と、ドアの脇の電気のスイッチ、それらの醸す光景は、「(夢)」とことわられたことによって、昼間のセックスの後の女の眠りを思わせたりするが、そんな女の午睡が、使い古された時間・時代に包まれた空間に醸成されたものであること、人間の日常の営みは、人間の馴染み関わる民俗の撫育の上に成り立つものであることを語っているように見えた。
また、もう一方の人物のいない作品、室内の「トイレと窓」「バスルーム」は、使い古された壁の染みや床の汚れやひび割れが、そこを使い過ごして溜め込んだ時間の、人間の暮らしの染みを物語っていた。扉が開かれ貯蔵の品々の納められた「新しい冷蔵庫」は、これから使い古されていく時間に取りこめられた姿として描かれている。いずれにしろ、ここでも、室内の対象に見出しているものは、ミステリアスな時間というものの、見えない「存在」の不思議だと言えばよかろうか。
次ぎに、室内のロペスの目は、屋外の大きな空間に移る。そのとき、ロペスが最も拘り描き続けたのが、画家として生涯を送ることになった大都市マドリッドであることを、マドリッドの俯瞰的構図の大作を中心にした、十点近い風景画が物語っていた。
彼の生涯の殆どの時間を包んできた場所だからこそ、彼を包んできたその街への思いを描こうとする時、その街を見下ろし見やる俯瞰の視点が、屋上の絵から出発していただけに、自らに課されることになったのだろうと、思われてくる。
二メートルを越す画面に広がる俯瞰されたマドリードは、建物の屋上も窓も、その大通りも小道も、全て使用されている日常の佇まい(遠近に応じて細かに描かれた、屋上に置かれた様々な物、カーテンやその開閉が様々になった窓の様子等)を持って描かれ、そこに過ごす人間たちの、些細な存在を実感させずにはおかない。
それは、大都市というものに対する親近感を、私にも生じさせるのだが、よく見れば、その画面には、車も人も、猫の一匹も、画面上半部の美しく晴れた天空に飛ぶ鳥の一羽さえも、描かれてはいないのである。動く生き物が一切描かれていないその大きな画面は、しかし、空虚や虚無を私に感じさせはしない。絵そのものの都市というものの孤独な姿に、都市に住んで生きる者の孤独を見出して共鳴する、そういう出来になっているようである。この、日差しもさやかに晴れ渡った、俯瞰遠望する広大な大都会の明るい絵は、そこに生きる小さな己の姿の幸せとは何かを考えさせる装置なのかも知れない。
そういう俯瞰的風景画の中で、地上の立ち位置に視点を置いて、マドリードの街を描いた作品が一点だけあったが、私は都市の風景画としてこれが一番気に入った。
気に入ったのは、現代の俯瞰的マドリッドではない、十六世紀にはヨーロッパの先進国だった往時のスペインの首都の匂いが、一階は店舗や仕事場になっている四・五階建てのビルが長屋のように連なり、三差路の辻から奥へ、通りを造って続いている古びた街の表現、それも早朝なのであろう、人気の全くない街の表現に、嗅ぎ取られたからである。
この作品で、ロペスが表したのは、都市の抱え持つ時代性なのだ。既に、室内の絵で、二十世紀の、様々な用具の著しい変化によって強制執行される自分の暮らしを、暗示していたが、その変貌する時代を、昔からの顔で素知らぬことのように飲み込んで治まり返っている、古い街の現実を、ロペスは街そのものの物言わぬ静謐な佇まいによって描き出しているのだ。
こうした油彩画群の後、会場の最後は人体の彫刻と、その素描によって締め括られた。その中で、「男と女」という全裸の男女二体ーー男は二メートル位の背丈、女は一メートル七十位の背丈であるーーがあったが、直立している二体は、茶褐色の肌色に全体が着彩されている木彫の像で、それぞれ真っすぐにこちらを見て、どこにも力んだ所のない立ち姿だった。その、中年に差しかかろうとする男女の、個性的な特徴の全くない顔立ちであることが特徴の、まるで主張を欠いた寂しげなその眼差しに向かって立つと、それぞれの語りかけてくることは、紛れも無く、これまで見てきたロペスの「リアリズムの存在観」であって、それが、私を引き付け、ロペスに対する私の共鳴を決定的にした。
しかし、私の肩や背に、疲労感が重くのしかかってきていることが分かる。
私は鼻先にコーヒーの香を嗅ぎたくなる。美術館を出た地階の、天井が吹き抜けのフロアにあるテーブルでの一服へと、足が自ずと運ばれる。
(二〇一三、六、一〇)