いつか、その展覧会に出会える時が来るのか、その機会に恵まれることもなく終わるのではないかと、この齢の中で心もとなさを増してきている、そんな気掛かりな画家が私には一人あった。画家の名は木村荘八である。
私にとって、木村は、フューザン会のメンバーとして絵画運動を共にした岸田劉生のように、近代洋画界を代表する一人として記名されるほどの貴重な存在ではない。一編の小説の挿絵画家であることによって、その名を私の心中から逸することができなくなった、そういう画家なのである。
一編の小説とは、私に、一読、極めて深い感銘を齎した、永井荷風の『濹東綺譚』のことだ。この、一九三七(昭和一二)年に朝日新聞に連載された『濹東綺譚』の挿絵を描いたのが、木村荘八だったのである。
無論、『朝日新聞』に連載された昭和一二年の「濹東綺譚」に接することは、私にはありえないことだ。私が読んだ『濹東綺譚』は、古本屋で求めた戦前版の薄い岩波文庫でだったが、一九六四年に岩波版の『荷風全集第九巻』が手許に届くと、収録された「濹東綺譚」と共に、巻末に、木村荘八の挿絵全点が一括して掲載されていたのである(注1)。 私は一驚し本を持つ手が震えた。
言うまでもなく荷風の『濹東綺譚』は、玉ノ井という色街での女との交渉を、その地が織り成す文化風俗も豊かに、随想的筆致で情味深く描いた小説として傑作の誉れ高い作品で、その評判に私も乗る者だが、その傑作の誉れが、木村荘八の挿絵と一体化することによって、構築されているものだと云ってよいことを痛感させられたのである。
その挿絵を見たことによって、荷風の文化風俗的で随想的な佇まいを持つこの作品の、時の緩やかな流れを、そこに立つ音色の微妙な流れまで含んで、荘八の筆捌きが、小説の詩的情調の醸成に大きく与かっていることを私は否定できなくなっていた。そして、岩波の個人の全集に一作品の挿絵を収録するという、これまで見たことのない編集自体にも敬意を表したくなった。
そんな木村荘八の展覧会が、その生誕百二十年を記念して、「東京ステーションギャラリー」で催されることを知った。
東京駅が、重要文化財としての駅舎を創建時の姿に復元再生したのは、去年の秋だったが、その改装のため、何年か休館されていたステーションギャラリーも、装いを新たに今年になって開館することになったのである。その開館を記念しての展覧会を、東京という街を描き愛して止まなかった、まさに生粋の東京っ子と云っていい木村荘八(注2)の作品群で飾ることにしたのは、私には、玄人っぽいなかなかの企てに思われた。
私は、時間を作り三月二八日に観に出掛けた。
それにしても、『濹東綺譚』の、墨のペンと黒の鉛筆とで描かれた、細かな線描を中心にした小さな挿絵群の原画に、初めて出会えた喜びは譬えようがなかった。館内は人数も少なく静かで、藁半紙大の紙に描かれた作品が十五センチ程の小さだけに、顔近づけて見入ることになり、その分、荷風の著す玉ノ井のお雪の世界の夜の情調が、界隈の湿温や匂いまで生々しく感得され、殆ど自分一人で挿絵を独占している気分になった。帰宅後、また『濹東綺譚』の荷風の言葉の世界に遊びたくもなってきており、名作『濹東綺譚』が、間違いなく荘八の挿絵に負うていることを、改めて痛感させられた。
加えてこれに、今回の展覧会に最も相応しい挿絵作品として、一九五八(昭和三三)年に描かれた『東京繁昌記』六五点と、同じく東京の街の暮れの風情を描いた『師走風俗帖』二五点の小品郡が展示されていた。
こうした挿絵作品を観ていると、荘八が描こうとしたものは、東京の街の単なる風景では決してなく、そこで動き暮らす人々の多様な日常を包み込み、自らもその人々の動きの中に息遣いしていることを伝える、動画的な街の景色なのだと分かってくる。筆の動きの語るものは、まさにそういう蠢く東京への親しみ、大袈裟に云えば愛だ。それも、新しく変貌して行く東京の力動の中で、次第に失われ消されて行く運命を持った東京の背中への、荘八的な無常観的愛の結晶なのだと見えてくる。
『東京繁昌記』はその意味で、今の「繁昌」ではなく、今も残る繁昌の佇まいの記録なのだが、その挿絵を主役にした。随想集『東京繁昌記』の刊行を眼にすることなく、荘八は六五年の生涯を閉じてしまったようである。
こうした、ペンの筆致に個性の滲む、小さな白黒の挿絵の作品群の後で、荘八の油彩画に接することになったのだが、そこで、これまで見たことのない洋画家木村荘八の、まさに他に類を見ない、東京の街の賑わいを描いた作品に出会うと、私は、その油彩画の多くに傑作の名を投じてもよい感激を覚えることになった。
油絵は、彼の若い時代から見ることになったが、そこには、これまでに見たことのある「母の像」や「祖母と子猫」、フュウザン会から草土社への二十代の代表作「壷を持つ女」な どがあったが、その時代の風景画は、森も街も、それが抱え込んでいる心象的奥深さを描こうとしていることに察しは行くが、私にはどれもつまらない出来だった。
そんな中で、何よりの収穫は、十数点の肖像画に出会えたことである。中で、自画像が六点あり、その六点は、粗いタッチで絵の具を重ね刷いて描く手法のもの三点と、細部にまで目配りをした写実的手法のもの三点からなり、それは、フュウザン会の同人岸田劉生が自画像に見せた二面の筆遣いに重なるのだが、劉生の自画像からは感じることのなかった嫌みが、荘八の自画像からは感じられ、どれからも、いかにも強そうな自負心が伺える眼差しに接していると、いかにも付き合い憎そうな人柄が感取されて、それが面白かった。
確か、荘八は、東京美術学校(現在の東京芸大美術学部)に二度受験しても受からず、芸術家のエリートコースからの脱落を体験して絵描きになった筈で、そのコンプレックスが自画像の嫌みに結晶しているように思われたのである。
そういう絵描き荘八には珍しい、臙脂の暗い幕の前、赤いベッドの上に背をむけて横たわる全裸の婦人像(四〇x一〇〇センチ位)が一点、「睡眠」と題してあったのは、作品がオーソドックスな描き振りであるだけに、正統派と認められる画家への道への心残りを見るようで、青年荘八がいじましくもなった。
それが春陽会に参加し活躍する三十代の、一九二二(大正一一)年以後の作品になると、木村荘八の油彩画は、動く大都会東京の生活を、まさに時代の流れを伝えて活描するようになっていた。しかも、作品は、それまでの油彩画が五・六〇センチほどの大きさのものばかりだったのに、一メートルを越すものも出現し、一回り大きくなっているところに、油の乗ってきた荘八の、親愛の情のこもった描く対象に対する新たな意気込みを十二分に窺うことができもした。
そういう作品の始まりが、岐阜県美術館で既見の「パンの会」(注3)だった。それに続いて、日本髪のお雪の挿絵世界に通じる、二メートル近い、芸妓が衣裳替えをしている和室の佇まいを描いた絵「歌妓支度」、それと同じほどの大作で、牛肉店の玄関フロントの帳場の前で客を待つ下足番の男、正面の広い階段を盆の膳を肩に、上り下りする二人の和髪和服の女中を描いた、有名な「牛肉店帳場」、一×一、三メートル位の、昭和十年頃の大きく広い鉄骨の枠組み天井の下の構内に人の溢れる「新宿駅」、一三〇に七〇センチ位の縦長の、赤い大提灯、赤い柱の下賑やかな人通りを描いた「浅草寺の春」、五、六〇センチの小振りながら、夜空の見えるテント小屋の幾つかの裸電球の下で、鉢巻きをしたアザラシを、同じく鉢巻き姿の男が、舞い舞わせている舞台を描いた「大鷲神社祭礼」、さらには、どれも小品ながら、大鷲神社の赤い提灯の門灯下の雑踏を描いた「一の酉」や、曇り空のビルの下、車と人の雑踏を描いた「銀座みゆき通り」等に出会うと、今から七、八十年昔の、大都会東京の、生の現実が、巧みな色使いの動きによって、どれもその場の音まで併せて彷彿と表現されているのに、私は年のせいでか、ひどく懐かしい喜びを覚えた。
そしてその喜びが、その後に続いた数点の、劇場や舞台を描いた小品たちーー―中では、「私のラヴァさん」と「三番叟」の舞台画は美しかったーーによって、余韻を奏でることになり、その展示の進め方に降参してしまったのである。
こうした作品の後、「窓からの眺め」と括って、戦後の昭和二十年代、荘八晩年の庭の樹草や、窓外の眺望を描いた十点を越す作品があったが、これら油彩の全き風景画は、風俗画家、挿絵画家としての自己に、芸術家とは見なせない画業としての後ろめたさを覚えている荘八の孤独な寂しさを、そこに一点の素晴らしいと思う作品もなかっただけに、私に痛感させてしまった。
結局、私はその怪しさを心に抱え込んでステーションギャラリーを出ることになり、それを包み込んだステーション、東京駅からも出ることになった。
その駅舎は、荘八の時代の面影を残している筈であり、今日も多くの観光客がその駅舎の姿をカメラに収めているのに、荘八は、今日出展されていた挿絵にも油彩画にも、この東京の表玄関としての東京駅の姿を、一枚も描き留めていなかったことに、改めて気づいた。私は、東京駅を前にして、 溜め息とも安堵とも言い兼ねる一息を吐くことになった。
(二〇一三、四、六)
注1 同巻巻末に「昭和十二年、朝日新聞に掲載された時の木村荘八氏の挿絵を順を追って掲げる」と断って、 作者と画家の名を記した(その文字も木村荘八の書いたものである)タイトル画と、三十五点の挿絵が収録されていた。この全集発刊後、この挿絵は、岩波文庫の『濹東綺譚』にも収録されることになった。つまり、木村荘八の挿絵は、作品からは切り離せない意味を持つと判じられていることになる。
なお、これまで『濹東綺譚』は二度映画化されており、一作は豊田四郎が一九六〇年東宝で撮った白黒作 品、いま一作は一九九二年、近代映協によって新藤兼人が撮ったカラー映画で、主人公のお雪を演じたのは、前者では山本富士子、後者では、作品の主人公に因んで墨田ユキと名乗った、女優ではない素人の娘であったが、どちらの映画も、木村荘八の挿絵を場面作成に生かしていることが歴然としていたのである。
木村荘八は、新聞小説の挿絵画家として、大仏次郎や海音寺潮五郎、邦枝完二と云った作家の作品を扱っているが、私の記憶に残っているのは、舟橋聖一が一九五二(昭和二七)年から一年余に亙って毎日新聞に連載した大作『花の生涯』の挿絵で、わが家に毎日新聞は取られていなかったから、家以外の場所でその挿絵を楽しんだことを覚えている。お陰で、拾い読みではあるが、挿絵に啓発されて「花の生涯」に親しみも出来たものだ。そんなことが記憶に残っているのも、そもそもの、『濹東綺譚』の挿絵の印象が、木村荘八という画家への親愛感を決定的にしていたからである。
注2 明治の東京の街の近代化をその食文化の側面で大きく担った家の一つが、荘八の木村家だった。東京の街に牛肉のすき焼き屋のチェーン店を次々と開いて、街の活性化に大きく寄与した牛肉の『いろは』を聞いたのが荘八の父木村荘平で、その八男が荘八だったのである。木村荘平が、八人の妻を持ち、息子十三人、娘十七人、計三十人の子を成して「いろは」を運営したことなどを知ったのは、その昔の「読書新聞』の連載記事を通じてだった。
注3 「パンの会」は、一九〇八(明治四一)年暮れに始まった、若い画家・詩人たちの反自然主義的な、浪漫的・耽美主義的な新しい芸術を興すための懇談会を言う。
「パン」は、ギリシア神話に登場する Pan(牧羊神)を言うが、この神は音楽、舞踊を司り、自然全体 (pan)を治める神だと見做される。パンの会は、雑誌『方寸』の画家石井柏亭、森田恒友、山本鼎、雑誌『スバル』の詩人木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、石川啄木らに よって開催運用され、明治四四年まで続いた。荘八が、 「パンの会の様子を絵に出来たのは、成長期に多大の影響を受けた、作家で四歳年長の兄木村荘太(一八八九~一九五〇)が、そのメンバーとして会に参加していたからである。