川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

日本画の異端児、中村正義の怪と快

 中村正義。その名を初めて知ったのは、一九七〇(昭和四五)年のことだ。その年だと分かるのは、夏目漱石のお陰による。

 一体、私が初めて入手した『漱石全集』は、岩波が一九五六(昭和三一)年五月から新書判で出した全三四巻のものだった(注1)が、それが新たに集英社から、一九七〇年、荒正人の責任編集のもと、漱石作品の、初出、初版、それが現存する場合にはその原稿も加えて、作品の校異・校訂を徹底的に行ってその定本を作成し、それを基にした『漱石文学全集』が刊行された。語彙の注解も、岩波の新書判全集を超えてより広く深くなり、A5版全十巻(一巻が八・九百ページはある大冊だった)のそれを、私はソーセキだからと買い加えることにした。ところが、この全集には、当時としては面白いことに厚紙に印刷された挿絵が原色で挿入されており、その第二巻に掲載された「坊っちゃん」の挿絵五点は、その人物のユーモラスな描き方がなかなかにユニークで、その画家の名前が「中村正義」であることを、その時確かめ知ったのである。

 その後、何かの折に、その中村正義の出自が豊橋だと知り、「坊っちゃん」の挿絵に特異な魅力を発揮したその存在が、改めて気掛かりなものになった。しかし、それに応える機会は意外に訪れず、その名を知って十年後の一九八〇年、漸く、彼の故郷豊橋市の美術博物館で催された『異端の天才画家中村正義展』が、私に扉を開いてくれたのである。しかもその時、正義は既に五二歳の生涯を終えて三年を経ており、その展覧会は、彼の業績を偲ぶ、死後最初の大きな展覧会だったのである(注2)。

 それから、さらに十七年後の一九九七年、今度は、その没後二十年を記念しての『中村正義展』を私は再び観ることになった。その企画展は豊橋でも催されたが、私はそれを川崎市の市民ミュージアムで観た。川崎でこの展覧会が催されたのは、そこが、正義が腰を据えて、死ぬまでの十五年間を過ごした街だったからである(注3)。

 最初の中村正義展を通じて感じたことは、展覧会で「異端の天才画家」と銘打たれていた通り、彼が「天才」であるかどうかは別として、「異端」であることは疑いようがないということだった。それは、日本画の写実を基礎とした形と色の静謐の美学を全く否定するかのような、表現世界の異様さにあった。正義の絵は、色と形において、殆ど無気味と言っていいほどハチャメチャな様相を呈していたのである。間違いなく、これまでそんな絵を日本画で見たことはなかった。その点では、正後の異端は、表現の色と形における様々な試みや冒険を行ってきた洋画家たちの足取りを、日本画の世界にも受容し、洋画に拮抗する現代性を日本画にも築こうとする冒険を意味したということになろうか。

 しかもそのハチャメチャは、私には、滑稽と恐怖の二つの表現に集約されているように見えた。そして、その展覧会を通じて、正義の五十二年の生涯が、死と隣接した病弱な運命を背負ったものであったことを知らされ、彼の作品が、その運命の投影図になっていることを認めざるを得なくなった。存在の無力観が、ハチャメチャという、絵画の世界における暴力的と言ってもいいような表現を生んだように見えたのである。どんなに暴れようと、釈迦の掌上から逃れることの叶わぬことを知る悟空宜しく、自らとの戦に埋もれ没したのだが、その正直すぎる生きざまが、まだ五十歳になっていなかった往時の私の性には合わなかった。

 二度目の川崎で中村正義展を観たとき、そこが始めての地でもあり一人で出掛けたこともあって、も六十五を数えてもいたからであろう、また見る作品が前回と重複するものが多いということもあったであろう、ハチャメチャへの同情的な気分の湿りが多くなっており、異端には違いないが、滑稽さそれ自体に対しての悲嘆の声をかなり音楽的に聞くことができた。

 とりわけその声を高く聴いたのは、五点の連作(一点が二メートルに三メートルを越す大作である)から成る、「源平海戦絵巻」と、三十五点はあった、四十センチに三十センチ位のグロテスクな「顔」たちの絵とであった。前者の第三図以下の「玉楼炎上」「修羅」「籠城煉獄」の、大海原や火炎の中に、成す無く飲み込まれ翻弄されていく女官や武士たちの一つ一つの小さな姿に、正義の見つめる人間の小さな宿命的生への思いが窺え、後者には、一つとして似た顔立ちのない、かといって一つとして自負高い誇らしやかな顔のない、個性的に描かれれば描かれるほど、どこか侘しげな表青の顔に、正義の嫌悪する自己にいつも追われている内心が窺えたもの である。

 そして、今年十一月、名古屋市美術館で、『日本画壇の風雲児中村正義 新たなる全貌』展が催されることになった。これまでの二回は、自分一人で出掛けたのだが、もうこれが私には最後の中村正義展となるであろうことを感じ留めて、正義に関心を持った妻と一緒に出掛けることにした。二十二日、快晴の火曜日の十二時過ぎに伏見の美術館に入る。

 二四〇点に及ぶ出展数からして、それは、正義の「全貌」と呼ぶに相応しい展覧会だった。ただし、入館者は少なく、正義が一般受けしない画家であることを証しているようだ。

 今回は、傘寿を迎えようとしている私には、正義の晩年十年の作品が、特に心に触れる点多く、それを記すことにする。まず、正義の晩年の絵が、見ていて風景画、仏像画、顔の絵、恐怖の絵の四つに、頭の中で括られたから、本展の正義作品を、その四つに分けて、述べて行くことにする。

 まず風景画。一九六四年に描いた、「瀟湘八景」の八作品があったが、この古典的画題は、水墨画風な手法を用いながら、山も雲も実に大まかな色使い筆遣いで、「洞庭秋月」と「漁村返照」の舟の人物は、「坊ちやん」の挿絵画家に相応しく惚けたユーモアを湛えている。しかしそれが、私の足を留めたのではない。むしろ、その惚け味があったればこそ、その五年後の六九年に描かれた風景画八点が、思わず息を呑んで私の足を立ち止まらせることになったのである。その八点は、これまで私の目に映ってきたいかなる風景画にも増して、凛とした空気の佇まいを辺りに放っていた。どれも、七〇×九〇センチ位の横長の大きさで、決して大作ではなく、それだけ身近な印象を与えてくれるのだが、それだけに、そこに描かれたあれこれの雪景色は、まるで雪が、音も一緒に大気中の一切を地に押さえ込んでだかのように、透徹澄明した深々たる冷気をこちらに伝えてきたのだ。雪世界ではない「水の陽」「樹間」の二点までも、その大気の静寂を伝えていた。私は、正義の正しく日本画家としての技術の極めて純粋な、その純粋さに無心になる透明化した晩年の一面を見取っていた。私には「瀟湘八景」の脱俗風の雅味などは、却って、風流狙いの俗な表現に思われ、有り難みがまるで消えてしまったものだ。

 次は、妻が最も感心して見入っていた仏像画になる。一九七一年から七五年にかけての作品十一点が、出展されていた。各四〇X二〇センチの菩薩と赤不動・青不動がセットになった三点を除けば、どれも、三〇センチ足らずの縦に五〇センチほどの長さの小品で、全て額に納まった仏画だった。どの絵も、かなり重ね塗りがしてあるが、舞姫や顔の絵のような毒々しい彩色からは遠く、仏像であるからには当然のことだが、どれも落ち着いた佇まいを見せている。これらの仏像画が魅力的なのは、その表現法と、作品の愛らしい大きさに負うところが大きい。

 その表現法とは、我々が出会う古い仏像は、えてして、その着色された当初の絵の具が多く剥落してしまっているが、その色の剥落した仏像たちの表面の表情を、画面全体の表情になるように描きあげる手法なのであり、その手法によって、そこに黄土色の地を背景に描かれた仏の御姿は、正に手元に置いて慈しみ拝する、持仏の大きさになっているというわけなのだ。正義のその手練手管に誘い込まれて、私たちはその小ぶりな仏画に、あるいとおしむ己が心の優しさを見出すことになる、そういう作品だった。

 これに対して、顔の絵と恐怖の絵は、紛れも無く正義自身の生理そのものの投影図になっていることが感取できる。

 顔の絵は十五点程の舞妓の顔を描いたものーどれも二〇 センチ×一五センチ程の小品ーーと、それより一回り大きい四〇センチ×三〇センチ位の、三十五点程の顔だけを描いた絵とから成る(どちらも、前回川崎で見たもののような気がする)。作品は、七三年から七六年にかけての死ぬ前三年間に描かれたものである。舞妓の顔も、顔の顔も、どれ一つ優しい面差しのものはなく、全てがグロテスクに描かれている。

 顔の顔は、恐らく自画像を基にして描かれているであろうことが、忽ち想像出来、つまり、顔を通じて、正義は常に、死ぬまでの三年間、自己と対峙し続け、己の眼差しから自己を解き放つことなく、その生涯を閉じたことになる。その見続ける自己が、いつもグロテスクなものとして、感じ続けられていたことを、作品の突拍子もない配色と粗い筆遣いがよく語っている。

 一方、舞妓の顔は、どれも暗い空間の中に、等しく細長い上目使いの、恨みがましい眼差しをこちらに注ぐ、冷たい無表情で描かれていた。それは六〇年代半ばまでに、赤い色彩の中に、惚けた感じで比較的大どかに描かれた舞妓たちと、 すっかり風情が異なっていた。

 そしてこの暗く無表情な舞妓たちの無気味さを、さらにも 深めた作品に、縦一三〇に横一六〇程の大きさの、闇の中に恐怖の顔を浮かび上がらせた群像を描いた「おそれ」の二点に代表される、恐怖感をストレートに表に示した、七点に及ぶ比較的に大きい作品があったが、それらは末期を控えた正義の生理を最も直接的に伝えているように見えた。

 中でも二メートル×一,五メートルの大作「何処へいく〔呪詛(世界に告ぐ、そのⅡ)〕は、その題名が既に絵の禍々しさを語っているが、そこには、暗黒の中央に骸骨が浮かび、その脇から、下の煙る奈落に向かって辿る白い一人の足跡が描かれ、左右に恐れの目を剥き出した幾つかの顔と脅えの手が浮かんでいるといった図柄である。また「ピエロ」という絵では、白い顔に真っ赤な鼻頭と赤く大きな唇の美事なピエロの脇の陰に、ピエロに連れそうかのように闇に浮かぶ顔立ちで正義自身が描かれており、「裸と私」では、手や足や首の骨だと思われるような裸の後ろに、やはり正義の細長い顔が影となって描かれていて、それらは、どれも七四年以後に描かれた作品だったのである。そして展示の最後を飾っていた、死去した年に制作された唯一の作品は「うしろの人」と題するもので、それは舞妓と思われる和服の女性が、暗い陰を背負うようにして、顔を真っ白に浮き上がらせて眼差しをこちらに注いで立ち、その後ろに、張り付くようにこちらを見つめている陰の女が描かれている、そういう絵だったのである。

 その最後の一点「うしろの人」をみていると、一九六〇年頃から描き続けられてきた舞妓は、日本画家正義にとって美の理想と見られる素材であったはずだが、その理想すら、自らの終息に当たって、暗い闇の姿の陰にまで堕して、自らを見つめ縛ることになる、画家という存在の業を描き語っているように思われた。

 見終わって、私も妻も疲れた。妻は頻りに仏像画のよさを口にしたが、それでも疲れは大きいようだ。時間は二時になっている。遅い昼食を、気持ちのよいレストランで今はゆっくり食べたい。

(二〇一一、一一、二九)

 

 

 

 注1 あの頃岩波書店は、一般庶民でも手軽に入手できるように、新書判で全集や選集といったものを次々と発刊した。お陰で、私は随分助けられ、『啄木全集』『寺田寅彦全集』『魯迅選集』等を手元に買い置くことができた。

 注2 豊橋美術博物館で、大きな企画展が催されることはあまりなく、私がこの美術館で見た企画展は、一九八 六年秋に催された『渡邊畢山展』ぐらいのものである。 そのことからしても、中村正義の生地の美術館としての、正義死後最初の大企画展開催に対する拘りと自負とを思い遣ることができる。

 注3 中村正義が、一九六一年三七歳の年から住んだ川崎市麻生区細山の自宅とアトリエは、「中村正義の美術 館」として一般に開示されていることを、その時知っ たが、そこまで訪ねることは今日まで出来ないで終わっている。

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