川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

二人のエイキュー(二)

承前

 もう一人のエイキューは、かねてからその作品を纏めて見たいと願っていた、日本画家松岡映丘のことである。私は、夙に柳田国男の末弟に松岡映丘という日本画家のいることを知っていた。しかもその映丘の、縦二メートル横一、三メートル程の大作「伊香保の沼」を、東京芸術大学所蔵の作品展で見て(注1)、そのロマンをそそる作画に、強く惹かれていたのである。

 伊香保の沼と言えば榛名湖のことだろうが、その絵は、一人の女が湖岸の岩に、足先を水に浸したまま手前に上体を傾けて、まるで放心したような眼差しで腰を下ろしている姿が描かれている。女は白い小袖の下着に、諸肌脱いだ小袖の打ち掛けを腰に巻く、いわゆる御殿女中お定まりの夏姿で岩に掛けており、長い黒髪は風に乱れて、その先が腰の下にまで垂れて水に濡れている。背景に見える乱れ雲の掛かった山は、赤城山ということになろうか。それは見ようによっては、湖中から蘇った女の化身が、亡霊的透明感をもって描かれているようにも思われ、どこか私の好きな泉鏡花の世界に通っていそうで、それが、私の映丘への関心をそそることになったのである。

 その映丘の展覧会が、生誕一三〇年を記念して、東京では、練馬区立美術館で催されることを知ったのである。取るものも取り敢えず、十一月十一日上京し、翌十二日の朝、久しぶりに練馬区立美術館を訪ねて、映丘展を観た。

 しかし、今度の展覧会に「伊香保の沼」は出展されていなかった。その代わりに、本画と同大の下絵を見ることができ、それが大きな収穫だった。その下絵は、これまで意識しなかった、膝に肘をついて胸元に曲げた二本の手先の、何をしようとするでもない、しかし何かな仕種のようにぞ見える指の表情の、作品に占める魅力の大きさを改めて知り得たし、本画に描かれた女の眼差しも既に間違いなく描きとめていて、一点の作品が、作品として成立するまでの、画家と描く画面との間に生ずる、画家にとっての時間と空気の緊張の長さを私に伝えてくれた。

 尤も、日本画では、本画に寸分違わぬ輪郭線を主にした下絵を仕上げてこそ、始めて本画が描き上げられるという、不動の画面作成に時間を掛ける驚くべき実態を、私はこれまで、何人かの日本画家の個展を介して経験してきている(注2)。

 だから、ことは映丘の個人的資質に与かることではなく、おそらく、日本画家が画家になる過程で、誰しも身につける技法であり、日本画は、この技法あって始めて沈黙の時間をしかと抱え持って日本画となる、洋画とは異なる伝統を培ってきたということであろう。

 その伝統的技法の習得を、映丘は忠実に伝承したのであろう、出展作品はどれも、極めて張り詰めた時空を伝えて静謐な佇まいを保っているように見えた。

 作品は制作年順に展示されていたが、まず美校在学中に成った、一二〇×五〇センチ位の縦長の軸、「伎芸天女」「佐保姫」の二点に感心する。映丘の若々しさが、二人の女性のポーズに瑞々しく出ていて快い。伎芸天は、その背後に明らかに狩野芳崖の「悲母観音」像の借用を読み取ることが出来るポーズで、胸乳の初々しい半裸の天女像として宙に立ち、下界に向けて花を投じており、佐保姫の方は、宝髻釵子の髪に、唐衣と帯に領巾を靡かせ、右を仰いで立つ天平の娘姿で、指先に持った菫の摘み花を空に向かって投じようとしていた。どこにも疑念のない初な画家としての至福を、それは感じさせた。

 次いで私は、若い映丘の力量そのものを示すが如き六曲一双の屏風絵二点に出会う。優に人間の背丈はあろう高さと、曲幅六〇センチは超える長さ二間近くはありそうな一幅が、一双に及んで描かれているのだから、これを大作と言わないわけにはいかない。一点は一九一二(大正元)年に描かれた「宇治の宮の姫君たち」と題するものであり、今一点は、一九一七(大正六)年に描かれた「道成寺」というものであった。前者が、『源氏物語』の「宇治十帖」の「橋姫」の巻に根差す題名であり、後者が、安珍清姫の『道成寺縁起』に由来する題名であろうことは分かる。だが、前者は、右隻と左隻の描かれた場面が違い、右隻が、薫の君が縁側に座して、母屋の内で八の宮の姫君大君と中君の姉妹が琴の演奏をするのを聞く場面なのに対して、左隻の、縁に座して月を仰ぐ貴公子を、背後の妻戸の透き間から覗き見る姫君を描いた場面は、何なのか思い至らず、私には奇妙な一双になり、後者は、右隻と左隻とが一続きになった一つの風俗画として出来上がっていて、そこに描かれている満開の桜と鐘楼とこそは、「道成寺」に欠かせない素材であっても、そこに往き来する人物たちーーそこには僧侶も何人か描かれてはいるがーーは多く旅姿をしており、その中で、市女笠に壷装束(旅姿)の右隻の娘が、元結の長髪を長く背に下げた狩衣姿風の左隻の若者と、今し、目が合った見染めの一瞬を描いていて、それは安珍と清姫の馴れ初めとは話が合わず、何か奇妙だ。

 ともあれ、古典的題材に想を得た浪漫的風俗画には違いなく、中には額装のものもあるが、圧倒的多数の軸装作品の多くが、平安時代を主とした古典的世界を扱っており、どれも、扱う古典作品の、映丘における風俗的再現、つまり絵巻と同じく物語の挿絵になっていた。中でも「今昔物語伊勢図」(注3)、「江口の里」(注4)、「夕顔源氏ものがたり」(注5)、「みぐしあげ」「桜の花かめ」(注6)、「伊勢物語 河内かよひ」(注7)等は、いずれも人物が登場している屋敷内の光景が描かれているのだが、どれも絵巻物の表現に倣った、遠近法を持たぬ視点の俯瞰的な描写技法によって成り立っているのだ。しかしどの絵も、黒を除けば、青も赤も緑も濃く強 い着色はなく、見るものを刺激しない穏やかな色合いで描かれている。目にした直後キレーという反応が、最も似合う作品に仕上がっているのである。

 この俯瞰的で刺激的強烈さをもたぬ色彩の表現は、数多く出展されていた風景画においても際立っていた。私には、映丘が、人物の登場する風俗画の絵描きという思い込みが、いつの間にかできていたのだろうか、海と山との織り成す映丘の風景画のどれもが、広やかに心和むものとして、新鮮に受け止められた。中に「さつきまつ浜村」という、高さ一メー トル長さ二メートル程の六曲一隻の屏風絵もあったが、漁村の浜辺に並ぶ舟、立てられた幾つかの網、家々の奥の畑、海 の上を雁行する白い鳥の群れ、岬の岩や松の姿、それらは俯瞰されることによって可憐この上なく、見苦しく雑然とした現実の漁村の実態からは遠く、すっきりと汚れなく処理されて描かれた漁村の佇まいに、描き手の寄せる優しい眼差しを思ってしまう。

 優しい眼差しとは、漁村という対象を美化して、これも美化した広やかな山水の自然の中に包み込む、発想の意識に他ならない。風景画に目を奪われることの少ない私には、映丘の風景画に見とれようとは思ってもいなかっただけに、これは意外性に富んだ喜びだった。

 ともあれ、風俗画、風景画のどちらにも、古典的絵巻物的な描写スタイルが手堅く順守されているところからすれば、伝統的な日本の絵画としての「やまと絵」の語をもって遇するのが最も適っていそうに思われる。どうやら映丘は、明治という近代の到来にもかかわらず、表現にも素材にも近代的なものを求めることなく、伝統という古いものに拘ることで、時代が全て新しさを求める中での新しさを主張しているようだ。

 しかし、それでも、新しい世の中での暮らしの日常を、一切断ち切り超越して生きることは、映丘がいかに伝統に拘ったとしても不可能であろう。そこに意外性に富むもう一つの喜びに、私は出会えることになった。喜びと共に出会えることになったのは、「千草の丘」と「湯煙(草枕)」の二点によってである。

 「千草の丘」は、縦二メートル、横一メートルはあろう、展示ガラスの床に、軸の下が届いてしまっている大作で、桔梗、藤袴、女郎花等一本一本精密に描かれた秋の七草の咲く丘の地の上に、黄色い振り袖を纏い袖をたくしあげて、白地に花柄の、蝶結びに結った丸帯を負った娘が、右手を帯締めの胸元に置いて、体を捻るようにして立ちこちらを向いている。娘は、髪を古典と伝統を離れた引っ詰めに括りまとめて、後ろに挿しているのはモダンな洋簪である。この等身大に描かれた娘の背後には、秋の雲一つない青い空の下、中景の松の林と木立の丘、遠景の靄の中の穏やかな山が、丘の上から 俯瞰される形で描かれている。つまり娘の立つ位置から見ての俯瞰景なのであって、最早それはやまと絵的描写法ではないというわけだ。

 そして、この女性のモデルが、新派の大女優となり一世を風靡した水谷八重子だということが、作品の脇に説明されていた。作品は大正十五年、八重子が二十一歳の時に成り、商業用のポスターとして評判をとったことも紹介されていた。絵はその紹介をいかにも尤もなことだと首肯させる、時代のモダンを描いて美妙だ。

 ここで、先に見た、岡田三郎助の伝統的な世界に拘った油彩画の和服女性の、濃密な姿を思い出し、殆どそれと対極的な描き方・立場に立っている、この映丘の日本画の清々しさ に私は嬉しくなってしまう。

 それに加え、今一点の「湯煙(草枕)」は、その「草枕」の語からしても、木造りの浴場に描かれた裸婦像からしても、夏目漱石の名作を舞台にしていることは明らかである。

 作品は、縦五十センチ、横三十センチ位の小品だが、そこには手前の湯舟へと階段を降りてくる女主人公那美さんの全裸の姿が、白い湯煙の中に描かれている。那美さんは両手を後ろ髪に上げ、右の手には青い柄の手拭いが下がって、上半身を締めている。彼女の前の溝は、煙った白の中にうっすらとなった陰毛と共に、隠す事なく描かれている。それを見ると、映丘が、作品の表現世界を正確に読み取り、律義に再現しようとしたことがよく分かる(注8)。絵は一九二八(昭和三)年に出来ているが、その頃までの日本画に、女性の裸体像をその局部までリアルに描いたものを、私は見たことがないような気がする。

 そこには、漱石の作品を借りての映丘の、やまと絵にはない裸体画という領域に対する、日本画家としての挑戦を読むことができそうである。大正・昭和と移ろう時代の進化の中で、古典的・伝統的な「やまと絵」の世界にのみ籠もりきれ なくなる画家の現実というものが伺われ、改めて映丘に対して人間的な親しみを持ち直すことができ、やはりまた嬉しくなったのである。

 それにしても、今日、「やまと絵」的な世界を伝承して、日本画家としての名をなしている者はいるのだろうか。そう思うと、映丘が、最早過去の存在として、忘却の彼方へ封じ込められてきてしまっていることが、感取できもする。

 こうして、映丘の作品に出会えた喜びの爽やかさの陰に、この寂しい思いも併せ抱いて、私は練馬の美術館を後にすることになった。

(二〇一一、一一、二〇)

 

 

 

 注1 私が見た東京芸術大学の作品展は、大学の創立九〇周年と一〇〇周年を記念しての一九七七年と一九八八 年に催されたものだが、そのどちらにも、映丘の「伊香保の沼」は、日本画では上村松園の「序の舞」や鏑木清方の「一葉」などと一緒に展示されていた。

 注2 『新発見作品を中心とする横山大観展』(一九八 一〈昭和五六〉年、名古屋松坂屋)、『上村松園名作展』(一九八三〈昭和五八〉年、京都高島屋)、「みやびの美人画―北沢映月展』(一九九二〈平成四〉年、京都市美術館)等によって、本画に対する下絵の完成度の高さに目を見張ることができた。

 注3 『今昔物語集』巻二十四、「延喜御屏風に伊勢御息所和歌を読むこと第三十一」による。絵は、部屋の御簾の内で和歌を詠もうとしている伊勢と、御簾の外の縁で歌の出来るのを待つ、帝の使者伊衛少将を描いている。

 注4 謡曲『江口』による。絵は、簾を揚げた部屋の中で、上衣を羽織って胸元も露な遊女が、仲間と向き合って春遊びをしている場面である。この遊女は普賢菩薩の化身である。「江口」は摂津の国淀川上流(現在の大阪市東淀川区)の、河港のある宿駅で遊女宿があった。

 注5 庭先に咲く夕顔の花を所望する光源氏に対し、扇に夕顔の花を乗せて、源氏の許へ渡しに出ようとする侍女の立ち姿が描かれている。

 注6 どちらも『枕草子』で、「みぐしあげ」は「淑景舎、春宮にまゐり給ふ程の事など」の段で、絵は、春宮に 嫁いだ妹の淑景舎に対面するため、中宮定子が几帳の内で、侍女の手を借り髪を整え化粧をしている場面であり、「桜の花かめ」は、「清涼殿の丑寅のすみの」の 段で、絵は、弘徽殿の上の御局に伺候してしている中宮定子の許へ、定子の兄藤原伊周が訪ねてきて、匂欄のもとに桜の枝を何本も生けた大きな瓶のある縁側に座して御簾のうちに声を掛ける場面である。後者の場面では、瓶の色も、伊周の服装もすべて本文に記されているが、映丘の作品は、その色彩も柄もすべて本文に従っていることが分かる。

 注7 『伊勢物語』第二十三段、有名な「筒井筒」の段である。絵は、段の後半、浮気に出掛けるのに快く送り 出す妻をいぶかり、夫が出て行く振りをして物陰から、部屋を見張ると、妻がひとり「風吹けば沖つ白浪たつた山夜半にや君がひとり越ゆらん」と詠う、教科書でも著名な場面である。

 注8 『草枕』の中で、漱石はその女体について、「首筋を解く内に、雙方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るゝ末は五本の指と分れるのであらう。ふつくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、又滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢を後ろへ抜いて、勢の盡くるあたりから、分れた肉が平衡を保つ為めに少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりに踵につく頃、平たき足が、凡ての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中に是程錯雑した配合はない、是程統一のある配合もない、是程自然で、是程柔らかで、是程抵抗の少ない、是程苦にならぬ輪郭は決して見出せぬ。」と記している。

 

 

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