承前
二
翌日、私たちは妻の求めもあって、本郷を散策しながら弥生美術館、竹久夢二美術館に赴くことにしていた。丁度弥生美術館では、鏑木清方と同じ時代に、清方と等しく美人画の手練れとして評判の高かった鰭崎英朋という日本画家の展覧会が催されていた。その鰭崎英朋の名は、彼の描いた、泉鏡花の『純風流線』の口絵(注3)一点の鮮明な印象によって、私の記憶に止められていた。それだけに、その作品に会える喜びや期待が、私には心中ひそかにあったのである。
それに、母の身罷る直前に、泉鏡花に縁の深い画家小村雪岱の展覧会をわざわざ見にでかけていた(注4)だけに、母を送って最初の美術展巡りに、同じ鏡花に深く関わった画家の展覧会に赴くことは、冥界の母からの誘いに乗るような因縁を感じるところがあって、どこか妙な気分だったが、それを妻に話してはいなかった。
さて、私たちはその日、本郷三丁目で地下鉄を降り、そこから広い本郷通りを歩いて、まず、東大の赤門の向かい側にある、路地を入った奥の、樋口一葉ゆかりの法真寺に寄った。法真寺は、一葉が、丁度「たけくらべ」の主人公美登利の年頃に至るまでの少女時代、親子兄弟家族揃って、幸せに暮らした本郷六丁目の家に隣り合った、一葉の親しんだ寺である(注5)。
今日辿る道を、私はこれまで通ったことはあるのだが、法真寺は初めてだったのだ。
私たちは、寺の観音堂に参拝して、路地沿いの戸口に掲げられていた「樋口一葉記念館」の表札の前に戻り、表札下のベルを押した。すると、表通りに近い別棟から一人の中年女性が現れ、見学御自由にと戸を開けてくれた。部屋は二十坪もないくらいの三和土の土間で、そこに置かれた展示ケースや壁面のショーケースに、ぱらぱらと飾られているものは、見れば一つとして、一葉の資料と言える物がない。一葉の出版物さえ一冊として置かれていない。この寺で、毎年一葉の命日十一月二十三日に行われる一葉忌の、行事記録やその折りの写真や新聞の紹介の切り抜きなどが、埃っぽく展示されているだけで、これをもって、一葉についての「念」を「記」する「館」とはとても言えない。「念」を「記」することなく「館」だけが辛うじて存在する、そういう時代になっているということだ。私は、三和土の土間と、何もない灰色がかった寒々とした部屋の貧しげな佇まいに、一葉の名作「たけくらべ」の縁で、店を畳んで放置された明治の文具駄菓子屋を、何となく想像してみる羽目になる。
私たちは本郷通りに戻り、東大の塀沿いに北へ歩いて、言問通りへ折れて坂を東へ下った。記憶に間違いがなければ、漱石の三四郎が、始めて理科大学に野々宮君を尋ねて辿った道のはずである(注6)。少し下ると三差路になり、そこを右に折れれば、東大裏手の三四郎が入った弥生門に出る。その門の向かい側に三階建の小さな立原道三記念館はある。その記念館に入って、小さな受付で、弥生美術館、竹久夢二美術館と三館共通の切符を求め、今日の展覧会見て歩きを始めることになる。
二度目の私は格別の感慨があった訳ではないが、立原道三が残した、詩だけではない様々な世界の遺作群の、狭い小さな空間に込められたささやかな充実に、彼の短い生の実体の儚さを改めて認めて、胸に風が通る。妻も、何をどう感じたかを語ることはあまりなかったものの、何点かあったパステルで描いた風景や人物を描いたスケッチ画が面白かったと洩らしはした。確かに、パステル画の、紙面を塗り込めない描法は、私たち世代には、水彩やクレヨンと違ったモダンなものに感得されていて、それが、私たちにとっての昭和モダンの土地、軽井沢・信濃追分を背景にして詠まれた立原道三の詩のモダンと相俟って、懐旧的親しさを覚えさせてくれるものなのだ。
こうした前場があって、同じ通りを少し先に歩いた弥生美術館で、今日のお目当ての鰭崎英朋展を見ることになったのである。
しかし、初めに先ず、この美術館の特徴から話さなければならない。それはこの美術館が、もともと美術館として建てられた建物ではないということだ。美術館の前に立っただけで、かつて誰かが暮らした大きな日本家屋を改造したものだということが、すぐ分かる。だから、会場は、かつての床を外し、部屋部屋の襖障子を取り払いして造られたもので、一、二階のどの展示室も、その中程にはこれまで部屋を支えた支柱の柱が二本位残り、それを囲んでガラスのショーケースを設置し、そのケースを巡る四面の壁面には、それまでの間取りを伺わせる仕切りの柱を残したまま、ガラス張りの掲示空間が設えてある。
こういう展示場に、「芸術・美術」の名の下に括られるような画家ではない、卑俗な近代の絵描きたちの作品や資料を展示するとなれば、どうなるか。
そこに齎されるものは、時代遅れで下町的な駄菓子文具屋的風情というものであろう。その風情を、残すというよりは復元して伝えようという企てそのものを語りかける造作、それがこの美術館なのだと、私には思われる。 私がこの前ここを訪ねたのは、もう十年以上昔のことだと思うが、その時、ここには、大正・昭和初期の少年少女向けの本や雑誌や、それを飾った挿絵画家たちの作品が、展示されていて、小学生時代の自分にとっての文化生活に、どっぷり浸かり込んだものだ。
小学校時代、私の親しんだ雑誌は『少年倶楽部」であり、夢中になって読んだ本は、江戸川乱歩や山中幸太郎のもので、その読書の興奮を決定付けたのは、樺島勝一と梁川剛一の挿絵だったーーそれは、決して『赤い鳥』や、鈴木三重吉や北原白秋、清水良雄や山本鼎等による西欧的・山の手的、つまり今風に言ってのハイブラウなモダンではなかったーーのだが、その雑誌や本や多数の挿絵画に、少年の日の遠い昔に否も応も無く立ち返ってしまい、駄菓子屋の船をしゃぶりながら、見ている自分をそこに重ね見たことだった。
弥生美術館とは、そういう美術館だったのである。そこで鰭崎英朋の特別展が、その生誕百三十年を記念して実施されているという訳だ。「それは、私たちが、立原道三の小さな山の手的モダンから、鰭崎英朋という下町的駄菓子屋風大衆的世界へと、足を運んだことを意味する。
館内の展示は、英朋の軸装の日本画から始まっていた。そこには美人の幽霊を描いたものが二点あって、思わず河鍋暁斎の幽霊と比較してしまうが、暁斎のような恐怖感を煽るようなものではなく、冥界に佇む女の美しさを描こうとしており、これなら夏の涼を呼ぶに格好の軸だろうと思われる。そこには、江戸時代末から明治国家が成立するまでの動乱期を生きた暁斎と、明治十七年生まれの、明治という新時代が安定に向かう時期に成長した英朋との動かし難い時代差が伺える。
それに、既に何かで見たことのある「鎚権三重帷子」(注7)の曲があった。夫浅香市之進に討たれた妻おさるが、月下の伏見京橋の袂に倒れかかっているところを描いているのだが、他に、暖簾を分けて出てくる遊女姿の「小かん」や、白い着衣の首に青い水晶石の数珠を掛け、菊の花を持って立つ女を描いた「伏姫」の軸があるのを見ると、英朋が、こういう軸物の本画においても、現代の劇画に相当する世界(注8)を描く、挿絵画家の根性から逃れられない画家だったことが分かる。
この後、軸物の大きさの作品は二点よりなかったが、その二点のうち一点は、『不如帰』(一九一三《大正二》年)の浪子が死ぬ場面を描いた物であり、もう一点は、「生さぬ仲」(一九〇〇《明治三三》年)の、立ち姿の珠江としゃがんで膝に滋を引き寄せている真砂子を描いた物だが、徳富蘆花と柳川春葉とが著した、どちらもそれぞれの時期に広く大衆的に流行したベストセラーである。展示説明に従えば、どちらも戯曲化され上演された際の、劇場用の絵看板として描かれたものだということだ。それが絹本着色の本画として残されたことになる。
それ以外の出展は、どれも三〇センチ位のサイズの挿絵や表紙絵の作品ばかりで、それが壁面に、多くの場合その下描きと共に並べて飾ってあって、その作品の前やガラスケースの中には、原作の作家である泉鏡花や春葉から英朋宛に届いた書簡や、作品が使われている雑誌や装丁本、さらにはスケッチブックや写真や新聞の切り抜きといったものまでが、実に取り留めもなく並べられているのだ。その取り留めのなさが、遠い昔の雑貨・駅菓子屋の佇まいに私を誘う。
そして鏑木清方が、昭和も十年過ぎてから描いた「築地川」や「朝夕安居」の世界は、私にとっては、一葉の「たけくらべ」の駄菓子屋に結晶している、明治の風俗世界への確かな回顧の上になりたっているものだということを、改めて得心させ、その得心が忽ち、一葉作品を併せ重ねた脚本を基に、蜷川幸雄が演出した『にごり江」の舞台(注9)に私を誘い込みもする。大当たりを取ったその舞台は、思えば正に雑貨駄菓子屋的な明治の風俗世界の集約になっていたのだと、改めて思う。「にごり江」のお力を浅丘ルリ子が演じための舞台を日生劇場へ見に行ってからもう何年経つのだろう。もう三十年は過ぎてしまっているはずだ。思えばあれが、駄菓子屋文化の終焉を告げる大咲きの花だったのかも知れない。先に『清方ノスタルジー」展の閑散振りを記した(注10)が、今では「ノスタルジー」としてさえ空虚となっている訳で、それは見事「記念」の「館」の空しさと照応して、明治以後の下町世俗大衆文化の消滅を私に告げている。
こんなことを思うのは、わたし自身が、消滅した文化に近い、消滅する側へと歩みを進めている年齢になっているからに違いない。
ともあれ、その小さな作品群の中に、早速、鏡花の『続風流線』の例の口絵と、その下絵を見ることが出来て嬉しくなる。芙蓉湖の水中から、一人の若者(作品の多見次)が美人の娘(美樹子)を水面に救い上げたところを描いていて、その水中が見える動く水の表現が作品の魅力を決定付けている。また鏡花の『婦系図』の前編・後編の口絵二点とその下絵が、同じように動きのある表現によって生彩を持つ作品として印象に残る。
鏡花以外の作品を扱ったものでは、一龍斎貞山の講談「大岡政談」「旅寝の夢」の挿絵、幸田露伴の「天うつ浪」、山岸荷葉の翻案「はむれっと」、後藤宙外の「月に立つ影」、二葉亭四迷の「其面影」と言った作品の口絵が多数あったが、作品の登場人物の動的な場面を扱った絵に、その仕種と表情に生彩が生じて面白く出来ていた。
しかし、何と言っても、その多くの作品は、婦人・娯楽雑誌の表紙を飾った、温和で優しい表情の美女の半身像を描いたもので、それらは奇麗で美しく出来ているには違いないが、そう言えばそれで済んでしまう生活臭の欠けた物足りなさを感じてしまい、そこに雑貨駄菓子屋の古い生彩を感じることは薄くなる。
こうして見てくると、英朋のだが、同じ泉鏡花に関わって描かれておりながら、先にみた小村雪岱の絵の情調と明らかに違うことがわかるのだが、それは英朋には、雪岱のように対象を遠く離して捉える目が殆ど欠けている点に負うているということだ。俯瞰的・遠近的な視線の強調された雪岱の作品は、対象から離れて対象を捉えようとする雪岱自身の姿勢、つまり、それだけ雪岱が、対象を冷めた知的な眼差しで捉えようとしていた画家だと思わせるが、逆に英朋はそういう知的眼差しを感じさせない画家だと見えてくる。そして、描かれた表紙絵の沢山の女性に、美しくはあっても、知性的なあるいは個性的な美しさを見出すことができない理由も、そこにあるように伺える。
終わりの方に、昭和に入ってから、文部省の小学校国語読本の「モモタロウ」や、同じく修身教科書の「キンジョノヒト」の挿絵、講談社の絵本「花咲爺」の挿絵や表紙絵などが展示されていたが、それも英朋の目立つ個性を持たぬ表現が、無難な良さとして採用されたのではないかと思われた。
妻も私も、隣の竹久夢二美術館では、もう熱心に見る気もなく通り過ぎた。何よりも弥生美術館と相似た建物の内装が、夢二に気の毒な思いさえ抱かせた。夢は、私には、駄菓子に紛れ込ませることのできないお洒落の持ち主として、その表現が捕えられているからだ。私たちは、地下鉄の根津の駅へと重くなった足を運ぶ。
(二〇一〇、三、一五)
注3 その口絵は、『別冊現代詩手帳・泉鏡花』(一九七二年一月号)の表紙絵として使われていて、それに魅かれ、鰭崎英朋の名を記憶することになったのである。なお『続風流線』は、一九〇五(明治三八)年、春陽堂から出版されている。
注4 小村雪岱展のことは、『緑』の平成二四年三月号で語った。
注5 一葉はこの本郷六丁目の家を、雑録「詞かきの歌」の中で、「かりに桜木のやどといはばや、忘れがたき昔の 家にはいと大いなるその木ありき」と、死んだ年の明治二九年に懐かしんでいる。この家を舞台にした作品には、「ゆく雲」(明治二八年)があり、それに従えば、家の二階から寺の境内が見下ろせ、そこには露座の観音があったことが記されている。
注6 三四郎は、小説の中で弥生門から学内に入っている。『三四郎』が世に出たのは一九〇八(明治四一)年のことだが、当時坂を下る道の右側が帝国大学理科大学(現在の東大理学部)で、左側には第一高等学校(現在の東大農学部)があり、小説から道はまだ舗装されていなかったことが分かる。
注7 近松門左衛門の世話物の浄瑠璃である。
注8 「小かん」は、近松門左衛門の世話物「心中刃は水の朔日」の主人公であり、「伏姫」は、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の初めに登場する女性である。八犬士がそ れぞれに持っ仁義礼智忠信考悌の八つの水晶の玉は、伏 姫が首に掛けていた数珠で、彼女が切腹した際、天に飛 び散ったものである。「八犬伝」は出版直後から、何度 も歌舞伎に取り上げられ、脚色上演されているが、明治 二三年には、この伏姫と忠犬八房のくだりが、三世河竹新七によって脚色され、中村座で上演されている。
注9 題名は「にごり江』だが、「たけくらべ」「十三夜」「わかれ道」の三作品も、それぞれの作品の展開通りに、一つの舞台に組み込まれ脚色されていた。一九八一(昭和五六)年一月、日生劇場での上演である。
注10 『緑』の平成二四年二月号で記した。