七月十一日のその日、私は大坂の梅田近くの中津で、午後二時から仕事があった。
どうせ下阪するのだから、午前中に展覧会の一つでも見ておこうと、京都に寄ることにした。丁度、京都の鳥丸御池の京都文化博物館で、『白樺派の愛した美術』展が開催されていたからだ。
七月に入ってずっと雨日和で気が滅入っていたが、その日はどうやら雨の気配もなく、出掛ける気持ちが多少軽くなって救われる。
今年は雑誌『白樺」が誕生して百年目になるらしく(注1)、展覧会はそれを記念してのもののようだが、私達の世代にとっては、白樺派の文学運動は、「人道主義」という標榜語によって括られ、戦後間のない民主主義の洗礼の中で、戦前におけるその最も相応しい活動だったとの評価高く、お蔭で皆白樺派に対しては、親しみをもって接してきたと思う。特に志賀直哉の文章が、読みやすく親しみやすい口語文の規範典型のように高く評価され、必ず国語の授業で接したこともあって、白樺派への親近感を深いものにしていた。
その白樺派に関する展覧会なのだから、文学に誼みを通じて今日まで生きてきた私には、この折角の機会を無にすることは許されないことだと思われたのである。
朝九時十一分の「ひかり」で京都で降り、京都文化博物館へ着けば、十時半にまだ間がある時間だ。会場の三階は、まだ人も少なくゆっくり見ることが出来た。
見ながら、白樺派の文学運動が、いかに日本の近代美術と大きな関わりをもっていたか、その運動が美術の一般への浸透にいかに大きな力を発揮していたかを、あらためて認識し直すこととなった。その意味では、その働きは、鉄幹・晶子の『明星』派(注2)が、近代美術の啓蒙に果たした役割を見事に引き継いだものだということもよく分かった。
そして、白樺派が一般への浸透普及に務めた当の美術に、いかに現在ある自分の美術趣味が支配影響を受けているのかということが、これまたよく分かった。
展覧会は、白樺派のその近代美術の紹介振りを伝える「西洋美術への熱狂」の項から始まっていたが、そこでは、マックス・クリンガーの「間奏曲」、ビアズリーの有名なオスカー・ワイルドの「サロメ」の挿絵、「或る小さき影」を始めとするロダンのブロンズ像、セザンヌの風景画と静物画、白樺派によって購入され第二次世界大戦中に焼失したゴッホの「向日葵」の複製、雑誌『白樺』の表紙絵を描いたハインリ ッヒ・フォーグラーのエッチング、ルドンの「ゴヤ」や口ートレックの「彼女たち」のリトグラフ、ウィリアム・プレークやゴヤの多数のエッチング作品、デューラーの木版画「ヨハネ黙示録」やレンブラントのエッチング「聖母の死」など、雑誌『白樺」で取り上げ紹介されたり、白樺派主催の美術展 で出品展示された作品八十余点が、出ている。
雑誌「白樺」の表紙にも使われた、縦長の楕円の中に描かれた一本の白樺樹の図は、私には白樺派を表徴するマークのように記憶されていたものだが、それを描いたのがドイツのフォーグラーという画家であるということを知らされたのは、恐らくもう三十年以上昔の『ハインリッヒ・フォーゲラー展』(注3)でのことだ。その会場はリツカー美術館で、美術館の向かえは、明治の十年代に北村透谷や島崎藤村が学んだことで有名な泰明小学校だったが、その美術館も今はない。
そのときそこで見たフォーグラー作品の主役は童話や神話を素材にしたエッチングで、あとは図案の下書きや人物・風景のデッナンや、スケッチといった小品だったが、その中に雑誌『白樺』の表紙絵になった作品を見ることができたのだ。
そして今度見た、白樺主催の茶西版画展覧会(一九一一、一二年)に出展されたというフォーゲラーのエッチング二点は、間違いなくかつてリッカー美術館で見た作品だった。その同じ泰西版画展覧会に出展されたと案内されている「間奏曲」十二点のマックス・クリンガーにしても、その十二点を含む彼の版画展(注4)を通じて、私はクリンガーを初めて知ったので、これももう二〇年前のことになる。
そのとき、その作品が全て単品として作成されておらず、主題をもって展開される連作として作られており、世紀末の画家マックス・クリンガーの、生と死の交錯する幻想的イメージが写実的な線描表現によって醸し出されている浪漫性に、すっかり魅せられたものだ。
「間奏曲」はその連作の中の一編としてあった。今度、別の連作「手袋」の中の一枚「願望」も出ていたが、山を背に中天に向かって立つ花の樹が描かれた縦長の作品で、これ一点を取り出して示されれば、それが、『白樺』創刊号の、児島喜久雄が描いた山を背景にして天に向かって立つ若木の白樺の表紙絵の、モデルになった作品であることは否めなくなる。クリンガーも『白樺』の成立に一肌脱いでいたことになる。
それにビアズリーの版画「サロメ」。私にとってオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は、ビアズリーの「サロメ」を抜きにしては考えられなくなっている。そのビアズリーだけの作品展(注5)にやっと出会えたのは、もう四半世紀以前のことだが、黒い線と面だけで絹織物のように作られた繊細で不吉な世界との出会いは今も忘れられない。その「サロメ」を、私がビアズリーに感動する七十年も前に、白樺は美術展を開いて一般に紹介していたわけだ。
私は、白樺派の詩や小説を読んではいても、そんな白樺派の美術運動などにはまるで無知のままで過ごしながら、一九八〇年代以後、何故か与えられた機会ごとに、フォーゲラーにもクリンガーにもビアズリーにも自ら進んで近づき、感興を高め、催す喜びに嵌まってきている。この事実を私は不思議に思わないではいられない。
第二次大戦の暗黒時代の空白を経て、漸く白樺が啓発した美術を受容できるようになった時まで、優に二世代分の間が生じてしまっているにも拘わらず、どうして私は、白樺派がかつて扇動した美術のあれこれにこうも嵌まり込んでしまっているのか。
もし言ってよければ、私の美的感性というものは、二世代以上も離れた昔から投げかけられた白樺派の運動によって、美事使嗾された結果だということになる。
私は、自然の広大さの中で蠢く小さな虫のように思われる自分がひどく愛しく感じられる。
それからロダンやセザンヌの作品、焼失したゴッホの「向日葵」の複製が紹介されているのは当然として、デューラーの木版画「ヨハネ黙示録」(注6)、ロートレックのリトグラフ「彼女たち」(注7)、ウィリアム・プレークのエッチング「エドワード・ヤング『夜想』」や「ヨブ記」(注8)、同じくゴヤのエッチング「戦争の惨禍」や「気まぐれ」(注9)、単品ながら、レンブラントやムンクやルドンの版画も出ていて、白樺派の美術受容の新鮮さと、取りも直さず私自身の美術受容の眼差しへの繋がりとに改めて気づかされる。
それから白樺派の画家たちの作品が並ぶ。
その始めに、一九一〇(明治四三)年の白樺社主催「南薫造・有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会」に出展された有島生馬の油彩画四点と南薫造の油彩と水彩四点ずつの八点に出会う。生馬の作品のうち「習作・伊太利の男」と「黒衣の女」の二点は、かつて見た近代日本美術の流れを辿る代表作品の展覧会(注10)に選ばれていて、そのときもその絵を私はいいなと思いはしなかったが、今度もやはり生馬の絵にさして魅力を覚えない。
それに対し南薫造の絵は、その名は聞いたことがあるように思うが、作品に接するのが初めてということもあってか、小品ながら絵の教科書のお手本になるような優しい穏やかさが感じられ、何か拾い物をしたようで嬉しくなった。尤もそういう絵だからこそ、その名も作品も影を薄くしてきてしまったには違いない。
それに続いて、翌十一年に開かれた『白樺主催洋画展覧会』に出展された、橋本邦助の「リュクサンブール公園」、浜田葆光の「川添の工場」、藤島武二の「巴里萬居の記念」、正宗得三郎の「河港」、湯浅一郎の「西日」といった油彩画が並んでいたが、その中で、私には藤島武二が、パリの小路の奥に建つ、自分の過ごした二階建の家を描いた一点に、暮らしの臭いさえ感じられる下町の空気を感じて、その筆力と併せて魅力的だった。雑誌『明星』の画家として、藤島の功績は欠かすことができないが、その彼が次世代の『白樺』の画家たちの運動の中に、余映を留めているところが面白くもある。
さらにその後、バーナード・リーチの版画、一九一三年の『白樺主催梅原良三郎(注11)油絵展』に出展された梅原龍三郎「黄金の首飾り」「ナルシス」などの五点、一九一九年の『白樺十周年記念主催岸田劉生作品個人展』に出された「静物《湯呑と茶碗と林檎三つ》」「壺」などの五点が続き、河野道勢、椿貞雄、斎藤与里、萬鉄五郎、木村荘八、高村光太郎、中川一政といった面々の作品が並べられていた。その面々の 作品は、いずれも十三回に及ぶ白体主催の展覧会に出展されたものばかりで、白樺派に関わったこうした画家たちの顔触れの面白さを改めて痛感する。
展覧会はここまで来て、「白樺」のメンバーの紹介になる。そこに、同人たちの書簡や原稿が展示されるのは常識的なことだが、中に、志賀直哉と里見弴が葉書に描いたあれこれの自画像があって、二人が絵を描く才能も充分備えていたと分かって面白い。揚句、白樺派の面々が勢揃いしている写真や白樺派主催の美術展会場の写真、有島生馬、バーナード・リーチ、児島喜久雄、岸田劉生らの装丁による、白樺派の作家たちの出版物、最後に白樺派の画家たちのそれぞれの自画像によって、展覧会は締め括られていた。
そうした中で、一九〇六(明治三九)年の五月に撮影された、学習院高等科の卒業を控えての白樺派の面々が入った制服制帽姿のクラス写真が印象に残った。志賀直哉二十三歳、武者小路実篤二十一歳、木下利玄二十歳のはずである。志賀が年配なのは学習院中等科で二度落第を繰り返したからだ。制服制帽のどれもが直哉に窮屈そうに写っているところが何とも面白い。思えば、それは藤村の『破戒』や漱石の『坊ちゃん』が世に出た年である。
改めて、フォーゲラーの枝も撓わな一本の白樺の表紙絵を私は思い返すことになる。
(二〇〇九、七、一五)
注1 雑誌『白樺』の創刊は、一九一〇(明治四三)年四月。一九二三(大正一二)年八月、一六〇冊を出し、九月一日の関東大震災によって終刊。
注2 雑誌「明星」の創刊は、一九〇〇(明治33)年四月。一九〇八(明治四一)年一一月100号を以て、第一次分終刊。雑誌『白樺』の創刊はその二年後である。
注3 『ハインリッヒ・フォーゲラー展」は、一九七九(昭和五四)年の一月七日から二月一二日まで、銀座六丁目 のリッカー美術館で開かれた。妻と二人で見にいっているのだが、何日のことか定かでない。その美術館は小さなもので、平木浮世絵財団の版画美術館として機能していた。その美術館を最初に訪れたのは、一九七六年の『吉田博版画展』の折りで、私が吉田博の名を始めて知り、洋画的描写に徹した正代木版画ならではの色彩の繊細な美しさに眼を見張ったものである。
注4 『国立西洋美術館所蔵マックス・クリンガー版画展』は、一九八九年四月から五月にかけて名古屋市美術館で 開催され、私は四月十八日に見に行っていた。その時出展された連作は「イヴと未来」「手袋」「或る生涯」「死について」「プラームス幻想」など十編、百四点からなる版画展だった。その中の一編「間奏曲」が、『白樺』の版画展で紹介されたわけである。
注5 『ビアズリー展』は一九八三年六月、新宿の伊勢丹美術館で催されたのを見ている。ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵のものを中心に、ロン ドンの三名ほどの個人所有のものと併せての二百二十点 からなる出展で、充実したものだった。
注6 今回出展されていた「ヨハネ黙示録」の「龍と闘う大天使ミカエル」は、画集を通じて一九七五年頃には既に強く印象づけられていたが、「ヨハネ黙示録」を始めとした「大受難」「小受難」「マリアの生涯」等の「デューラー版画展』を観たのは、一九八〇年の一月のことで、池袋の西武百貨店の十二階にあった西武美術館でのことだった。今はその百貨店さえなくなってしまっている。
注7 私が初めて観た『ロートレック展』は、一九八二年秋、新宿の伊勢丹美術階においてだが、この時「彼女たち」については、その扉絵一点があっただけである。因に、「彼女たち」は、ロートレックの版画中で評価の傑出した作品で、全十一点から成る。この連作は、ロートレックが得意の娼婦の世界を、その性的な臭いを極力殺いだ、日常的な何げない姿で描いている点に特徴がある。私が「彼女たち」の全点を観たのは、一九九四年になってからで、名古屋市美術館で催された「ロートレックと日本展』においてである。
注8 画集でかねてから気になっていた『ウィリアム・プレイク展』を観ることができたのは一九九〇年の秋、上野の国立西洋美術館においてである。今回の出展作品は、その時、どちらも全作揃った形で観賞できた。
注9 「戦争の惨禍」は一人一五年に、「気まぐれ」(現在は一般に原語の「ロス・カブリーチョス」の名で呼ばれている)は一七九九年に完成した。それぞれ八〇点から成る銅版画の連作である。何点かずつは、見ているはずだが、いつどこで見たのか、分からない。但し、どちらの連作も、国立西洋美術館が所蔵しており、見る機会は多いであろう。
注10 一九七九年一一月に愛知県美術館で催された『明治・大正から昭和へーー近代日本美術の歩み展」でのことである。
注11 「長三郎」は「龍三郎」の本名。