川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

忘れ得ぬのはなんだったのか
    ー『忘れ得ぬ女』を観てー

 五月十四日、木曜日のその日も、私はいつもの「ひかり」で東京に向かった。

 いつもの「ひかり」とは、私が上京する場合には決まって使う、十時十分に東京に着く列車のことである。当節便利な「のぞみ」を使わない訳は、ジパング倶楽部の割引きを利用するからだ。吝嗇なようだが、「のぞみ」では特急料金の割り引きが効かない。

 ところで、この「ひかり」で上京する場合は、八時二〇分過ぎの発車に間に合うよう家を七時頃に出るため、朝食をとらないで、名古屋駅に着いてからサンドイッチと缶コーヒーのホットを求めて乗車することにしている。車内で食する朝のこの軽食は、私の旅気分を軽く高揚させるに恰好のもので、丁度豊橋を過ぎる辺りで食べ終わり、そのまま電車のリズムに身をまかせれば忽ち快い眠りに落ち、気が付けば、大体小田原を過ぎ新横浜に近くなっているという寸法だ。私の定番として、今ではそれがすっかり体に馴染んだリズムになっているのだ。そしてその日もそうだった。

 新横浜ですっきり「画惚眸(えぼけまなこ)」に目覚め、今日は、上野ではなく中央線で新宿へ出るのだと自分に言い聞かせる。

 一体、今日の「美術展回遊記」ピクニックは、例によって、NHKの「日曜美術館」で紹介されていた三つの展覧会に使唆誘惑された結果である。

 その誘惑の一番大きかったのが、『忘れえぬロシア』と題した、モスクワの国立トレチャコフ美術館展だった。もっともこの美術館展は私にはこれが二度目になる(注1)。ただ、今度は、イワン・クラムスコイという画家の描いた「忘れえぬ女」という一点が呼び物になっていて、その絵の紹介中、司会の姜尚中が、「自分もこの絵に以前逢って強く魅せられた」と漏らした、その一言に、私はすっかり唆されてしまったのである。

 展覧会のタイトル『忘れえぬロシア』が、この「忘れえぬ女」に肖ってのものであることは明らかで、一人の男の「忘れえぬ」と漏らしたテレビの肉声が、その対象の「女」を、絵という二次元世界から三次元の存在として感覚させる混乱に、私は目眩ましをされたのか。それとも、二次元世界にしか存在しない「忘れえぬ女」というものに、今も実在の女としてどこかで逢いたく思っている、男としての私の潜在的欲が触発されたということか。

 ともあれ、今日の眼目であるこの『忘れえぬロシア』展を、私は一日のピクニックの最終地点と決め、まずは、二つ目の岸田劉生の肖像画展から始めようと考えていた。

 そこで私は東京駅から中央線で新宿に出る。新宿駅の西口から地下道を抜けて、損保ジャパンのビルに向かう。ビルの四二階に上がれば、そこが東郷青児美術館だ。この美術館の今回の企画展が、「日曜美術館」で紹介されていた『没後八〇年/岸田劉生/肖像画をこえて』なのである。おそらくその何点もが出展されているであろう劉生の自画像に接するだけでも面白かろうと思っていた。

 その自画像が十六点、まず並ぶ。その内一九一三(大正二)年の作が七点、一四年の作が五点、つまり、劉生二十二・三歳の自画像が殆どを占めている。しかも、この一三年の作品と一四年の作品の間には、だれが見ても分かる、描き方、技法の違いがあるのだ。明らかに印象派以後の粗いタッチから古典的な精細な筆遣いに、我々が見知っている麗子像の細密な筆致へと変わっている。

 それにしても、この筆遣いの変わる二年間に、十六枚もの自画像を描き残すとは。余程自分自身に惚れ込んで恥じない、独善的自負がなければ、こうはいくまい。

 一三年と言えば劉生が結婚した年であり、翌一四年は娘麗子が生まれ、二科会の委員を辞めた年になる。そしてこの表現法の変化は、続いて並ぶ知人友人達の二十五点を越す作品によっても歴然としている。一三年のバーナード・リーチや千家元麿の像と一四年の武者小路実篤の像を比べれば筆遣いの差は一目瞭然である。つまり、対象を写す写実の技法が、明らかに近代的な筆致から古典的な手法へと返っているのである。

 次いで家族・親族の肖像画が並ぶことになるのだが、劉生のこの手法の古典化が完成に向かう過程で、麗子と村娘とのモデルの存在が、劉生にとって如何に決定的な働きをしたかがよく分かる。自画像への拘り同様、ここにあるのも、劉生の独善的自己拘泥の面白さである。今回の展覧会では、この二人を描いた作品の多くが、水彩画の小品であったが、いずれも油彩画にとっての素描風親しみを持てるのと同時に、それだけ二人を描くことに取り付かれている劉生の自信と拘泥振りが併せ伺えて面白かった。そうした中で油彩画の「支那服着たる妹照子之像」と日本髷に結った「麗子十六歳之像」に初めてまみえ得たことも収穫だった。その自惚れ高い劉生が、洋行を前にして三十八歳で急逝したことを思うと、もし洋行が適っていたとしたら、彼の写実表現にどんな影響が齎されることになったかをついつい考えてしまう。その齎される影響との葛藤苦悩、ひょっとして混乱から救うべく、神は劉生を天に召したのかも知れぬ。そして誰もが認めざるを得ない劉生の個性の動かぬ形をこの世に定め残したのかも知れぬ。全く、大人の麗子像を知らないで終ったからこそ、麗子像は今日劉生の価値の偉大さを決定づけることになっているのではないか。

 私は四二階の高みの会場から地上に下り、原宿へ向かい、三つ目の太田記念美術館を訪ねる。

 太田記念美術館は浮世絵専門の美術館だが、これまで一度も訪ねたことがなかった。今度月岡(大蘇)芳年の作品展を開催しているのを知って、芳年に出会えるならばと出掛けることにしたのである。本当は芳年の「血みどろ絵(残酷絵)」にお目にかかりたかったのだが、その展示期間はもう終わっており、訪ねたその日は「風俗三十二相」と「月百姿」との錦絵百三十二点が展示されていた。

 前者の三十二点は、「うるさそう」「あったかそう」「つめたそう」等の題の下で女性の様々ななりふり風俗の「相」を描いた、どれも明台という新時代が賢したであろう多彩な彩りの美を感じさせる作品になっている。それに対し「月百姿」の方は、歴史的な物語り・伝説を素材にしたその主人公の月の場面が描かれ、それだけに、喜怒哀楽の激情が示された動的でまさに西欧近代的な構図のものが多く、どれもドラマのクライマックスの場面に立たされるような造作になっている。

 ところで前者は明治二十一年、後者は十八年から二十五年にかけて出版されているのだが、これを、当時の庶民が好んで求め、手許で開いて楽しんでいたことを思うと、その楽しみ方は、常時壁に掛けて楽しむ洋画や軸物の接し方とは違って、どこか閉ざされた、不思議な秘めやかさを覚える。それに似た秘めやかさを、私は樋口一葉の作品に感じ取ってしまうのだが、当の一葉は、果たしてこういう浮世絵版画をどのように見ていたのか、聞いてみたくなる。

 それにしても、やはり芳年の「血みどろ絵」は是非にも見たい。

 江戸から明治へ、平穏から激動への変化の時代、武闘殺戮が日常と化している暮らしの中、かわら版から新聞への情報た伝達の変貌発展を迎え、そうした激動振りを視覚映像的に伝える手段として現れた「血みどろ絵」には、文明開化の革新が背後に否応無く抱え込んだ負の側面が、けざやかに息づいているように私には思われ、その代表的な絵かきとして、芳年に対する関心が強いのである。

 今回の「風俗三十二相」や「月百姿」は、そういう激動の時代が治まり、暮らしの視線が自然と身の回りの平安に注がれるようになってきて生まれた錦絵だということになる。

 春信・歌麿は無論のこと、広重・北斎から芳年の師であった国芳に至るまで、殺戮の現実の現場を描くことを意図した「血みどろ絵」の版画を見ることはない。それだけに、芳年の「血みどろ絵」には、会ってみたいのである。

 そういえば、既に私は、本誌の五七一号に「『絵画の冒険者』暁斎Kyosaiの風貌」を載せていたが、その中で、羽織りの裏地に描かれた暁斎の「処刑場」の絵について悟ったとき、「こういう血まみれな残酷絵は、暁斎と同じ時期に活躍した浮世絵師月岡芳年の得意とするところだった」と書いてもいるが、考えれば暁斎も芳年と同じく、浮世絵の師は国芳だったのだ。「血みどろ絵」に拘るのは、私にとって無理もないのだ。

 その残念を引きずって、それとはまるで縁遠い明るい原宿の街に私は出た。

 私は、街の通りの脇から下に下りた地下のカフェークラシカルな内装の、落ち着いた風情のある店だった――に入った。そこで、美味しいカレーライスをホテルのレストランで食べるようなしつらえで食べ、これまた一人前ずつ入れた香りのいいコーヒーをゆっくり喫して、芳年への残念を癒した。

 そうして再び地上の現実に立ち返ると私は渋谷に向かう。

 私は、「忘れえぬ女」に会いに、渋谷駅から人通り賑やかな文化村通りをBumkamuraザミュージアムへと歩いた。

 

(以下次号)

 

注1

私が見た前回のトレチャコフ美術館展は、「ロシア近代絵画の至宝」と題するもので、一九九三年の夏、奈良市にある奈良県立美術館で催されたものである。

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