薬師寺という名刹の桎梏から解き放たれた日光月光両菩薩を、上野の国立博物館で見たのは去年のことで、そのことは既に書いた。
今年は、興福寺の創建千三百年を記念しての、国宝阿修羅像を中心にした寺宝展が同じ場所で催されることになった。今度も、前年の菩薩像同様、阿修羅像を身近に巡り見ることができるように展示されるという話である。どうやら、去年占めた味に倣って、再度の大成功が目論まれたものらしい。テレビなどの事前の宣伝もおさおさ怠るところがない。
その宣伝に、我がいさおしの単純馬鹿は、たちまち指嗾されて出掛ける企てを立て、立てるやすぐさま、いつものKに電話を入れてデートの相手を頼みもし、展覧会初日の三月末日、すたこら東京に出掛けたのである。
上野駅の公園口構内に出れば、既にKは待っている。十二時を過ぎていたが、昼食は阿修羅を見てからとKに言われ、ならばと博物館に赴く。折しも公園の桜、見頃に咲き、人出の賑やかさは普段にいや増している。
会場の平成館への入館は、昨年の日光月光菩薩展の時程ではなかったが、それでも十分程待たされた。
手荷物をロッカーに預け、エスカレーターで二階に上がり左手会場から入室する。
展示は、まず、明治に入って、興福寺の中金堂須弥壇の下から出土した鎮壇具ーー地鎮祭に当たって、建立する伽藍の地下に埋納する七宝・刀剣・器具の類ーーから始まる。平成十三年にも出土しているが、明治に二度にわたって出土した品々は、すべて国宝になっている。その四〇点を越す品々を、観客は腰を屈めガラスに顔を擦りつけんばかりに寄せ合って見なければならない。
私たちは、そこは早々にして次の部屋へ移動する。すると、左右両側の、暗い壁面を背にして、古びた仏像が並んだ広くて奥行きのある部屋の入り口に至り、思わず足を止めて息を飲む。Kも小さく「わっ」と声を洩らした。
左右から仏の眼差しを受けてその間を通る自分の姿が、ほの暗い異界に飲まれていってしまうように予感され、一寸足が竦んでしまう。と同時に、その予感は忽ち誘惑の囁きに転じる。足を入れたその部屋に居並ぶ者は、八部衆七駆ーー阿修羅像は別扱いでこの部屋にはなく、一般は破損して上半身と片腕だけの展示であるーーと、十大弟子六駆興福寺に現在伝わっているのは六体だけで、四体の出し惜しみがあるわけではないーーの十三体に、橘夫人が念持仏として所有していたと伝わる、三〇センチ位の阿弥陀三尊三躯を納めた高さ二メートルを超える大きな厨子ーーこれだけは法隆寺からの出品であると、木造の小ぶりな波羅門立像一躯の計十七体だった。八部衆と十大弟子の立像はどれも等身大の大きさである。
八部衆は仏法を守護する神々なのだから、いずれも鎧を身に纏って立っている。しかも、彼らは皆、一様に骨相が童顔に作られているのに気付く。鼻下と頬顎に髭を生やした畢婆迦羅にしても、結髪を逆立て、瞋恚の焔を然やした鳩槃茶にしても、表情に幼さが残っている。ただ中の一体迦楼羅だけは、何故か頭部が、鶏冠をつけ嘴に肉垂を垂らした鶏になっていて、その異形極まる顔がなかなかに面白い。そういえば、童顔を見せながら、沙羯羅は頭に蛇を頂き、上半身だけの残る五部浄の頭には象ーーその為は欠けているーーの冠が乗り、乾闥婆は頭上に獅子の冠を冠している。つまり、これらの神々は、菩薩を守護する者として、既にその名前からして突飛で異形なのだが、まさに怪獣怪物の化身として造形されていることが分かる。異形の存在として、自らの負を背負い、仏に仕える一途な純情によって、その負から自らを救おうとする怪物が、像の少年的容貌になっている、と言ったらよかろうか。そんな感じになる。
この歳になると、八部衆の表情から、思春期の得体の知れ ぬ自己に気付いて、不安を抱えたままそこから逃れようと先のことに目を遣っていた、中学時代の自分が思い出されてくる。そこに遠い記憶に繋がる懐かしさがあるようなのだ。
この思いは、十大弟子の、いずれも頭を丸め法衣を身に纏った僧侶姿の方を見ることによって、益々強く保証される。二十代から五十代迄の六体の僧像は、どれも接して穏やかなゆったりした気分に浸れる造形になっている。それが、暗い壁面の中の淡い光に閉ざされたこの部屋に居ることで、まるで仏の胎内にいるかのような、不思議な安堵に私を包み込んでくれているようなのだ。
既に金箔彩色の威光も衰え消えて、威厳から温容へと己が力を変容させてしまった、仏に仕える僧や仏を守る神たちが我々を招き入れてくれた、この不思議に優しい空間の造成に、私は感謝しなければならない。
私は、この胎内に所在する気分を負ったまま、その部屋を出る。
Kも、見終えて出口で今一度、懐かしげにその部屋を返り見ていた。
そして、本展の目玉、阿修羅像の展示場へと導かれることになる。
そういえば、杉本健吉の奈良における作品には、奈良国立博物館の内部を描いたものが結構あって、その中には、庫内に展示されている興福寺の阿修羅像を描いたものも何点かあった。
油彩画「博物館彫刻室」(戦後早々の一九四六年に発表されている)には、ガラスケースに収められた阿修羅像の左向きの姿が描かれ、同じく「阿修羅」(一九五二年)には、同じくガラスケースに収められた像の正面から見た姿が描かれていて、紙に描いたスケッチ風の、墨彩のもの(一九五八年)や鉛筆・クレヨン描きのもの(一九七五年)など、これまでの健吉展で、繰り返し私は見てきているのだが、それらの作品に対して、私は、健吉得意の奈良の風景画に抱くほどの好印象を持つことは出来ないできている。今もそれは変わらない。
どうやら健吉の阿修羅像は、それがガラスケースに収められた展示作品として描かれた分、否応無く博物館内部の一風景として捉えられている趣を持ち、それが、像そのものの力からは程遠い穏やかな微笑ましさのみを伝えていて、阿修羅像そのものへの健吉の視線を弱めてしまっているような気がしてならない。阿修羅像は、それだけ、健吉にも、まさにガラスを介して隔てられているような表しにくい複雑な力、赴きを持っていたということではないのか。
その阿修羅像が明るい照明の広やかな部屋の中央の円い展示台上に、一体だけ置かれている。去年の日光月光菩薩の場合と同じように像の周囲を一巡して見るようになっている。
一体、阿修羅像の魅力は、その正面の若やかな、眉間に憂いを矯めた少年と言っていい顔の笑まいにあるのだが、それ は、どこかミステリアスでさえあり、それこそ、モナリザの顔が齎す謎に比べても遜色のない、寧ろそれ以上の謎を湛えているのではないかと思われる。それは、モナリザのような 分別を備えた大人の、思わせ振りな顔ではない。何よりも、モナリザに表現された生身の重量を実感させる身体を、それは持っていない。肉体としての現実的身体を感じさせないそれには、重量がない、彫られている像の重量さえ感じ得ないような無重量の存在として見えている。しかもその無重量感は、どうやら蜘蛛の手のごとく彫られた六本の手によって際立っている。
モナリザのミステリーが、あくまで現実的な肉体の次元で醸されているのに比べれば、阿修羅像のミステリーは、現実的次元を超えた「ほとけ」という精神的観念性の上に成立しているのだ。
眉間に憂いを矯めた少年の顔は、それだけその分別を感じさせる表情であるのだが、それは、他の八部衆同様、成人に、一人前にまで成り切らぬ存在であることを語っているはずだ。もともと阿修羅は、天の神に刃向かうインドの鬼神であって、それが、仏の世界では、仏を守護する神に格付けされるようになったものなのだが、それなら、前の八部衆のところでも記したが、如何に仏の間近にいようと、仏には至らぬ、未熟な存在であることは間違いなく、像が少年である謂れは、そこに求められるであろう。そして、それを、大まかな「仏像」として捉える認識が、なまじそれが肉体性を持たぬがゆえに、文字通り「有り難い」ものとして、ミステリアスな神秘性を強烈に醸し出すことになったと、考えてよいように思われる。
しかし、ミステリアスであることが当然な、寺院という非日常的な神秘的異空間にあっては、三面六臂の異形ですら仰天するほどのことではなく、ましてや阿修羅像の童顔の笑まいの神秘性などは、間うに足りない仕儀なのであろう。これは、反転させれば、所詮モナリザの絵画が世俗的なリアリズム表現でしかないことの証しにもなり、そのミステリーは、超俗的な聖情のミステリーの殆ど対極にあると分かる。
その神秘的な祈りの異空間に、拝むという行為を介して見上げてきた阿修羅像を、同じ地平に出会う対象・他者として、平俗の次元にこれを引き下ろしてしまって見るというのだから、そこにモナリザとの比較の眼差しが生じてしまったのも尤もなことと、合点が行った。
ぎっしり屯する人の中に我が身を没して、Kと阿修羅像 の周りを廻る。去年の日光月光菩薩程の大きさがないだけ、仰ぐ視線の角度が低く、その分圧倒されることがなく、その表情とも相俟って、身近な存在として近しく親しみやすく見ることができる。若い女性たちが沢山見ていたが、この阿修羅像にはよくマッチした光景に思われ、私の頬が綻んだ。 私はこの景色を殆ど抱き締めたくなった。
こうして、阿修羅から解き放たれてこの会場から一旦出ると、一息入れることができる。私達はその一息もそこそこに向かいの次の会場に入った。
その最後の部屋では、鎌倉時代以後の仏像ーー全て重要文化財だったが展示されていたが、何と言っても四駆の四 天王像の迫力である。それまでの、仏像たちが等身大であったのに、二メートルはあろう体躯は大きく、その迫力を増幅する。当然のことながら、それぞれが甲冑を身につけ、邪鬼を足下に踏まえて、かっと眼を刺いて居丈高に立っているの が、こちらの鬱積するものを払ってくれるようで、気持ちがよい。そして、この四天王に囲まれて、それより一メートル位高い二駆の薬師菩薩像が立っている。作品の展開ぶりが中々に有り難い。
最後は、化仏三躰と飛天八躰が飾られているが、これらは、金堂の本尊である釈迦如来座像の光背に付いていたものとのことで、そのいずれもが手や腕を欠いていた。しかしその顔の部分には損傷がなく、飛天の顔には、それぞれの身のこなしと共に表情の趣が読み取れ軽やかになる。
あの八部衆と十大弟子の眼差しに晒されての異空間、胎内体験が深く沈殿していて、それからの救いとして、阿修羅や 飛天の明るい軽さがあったように、この展覧会が思われた。
この日、Kとは、昼食を取った後、西洋美術館の「ルーヴル美展ーー十七世紀西欧絵画」展を観て、喫茶を楽しん でから別れた。
それから二週間後、妻が私に唆されて上京した。
(二〇〇九、四、一五)