それにしても、お手軽な時代になったものだ。名古屋のブリジストン美術館が開館10周年記念として、本場のブリジストン美術館の所有になる、門外不出と言われたゴーギャンの大作、「我々はどこから来たのか/我々は何者か/我々はどこへ行くのか」が初来日することになった。「お手軽な」と言ったのは、この題名を副題に据えての「ゴーギャン」展が企画されたことである。つまり、ゴーギャン畢生の傑作の評判が高いこの一作を中心に据えて、それによって観客を動員しようと展覧会が企てられる時代になったこと、そこがお手軽なのである。
ルーヴル美術館の「ミロのヴィーナス」や「モナリザ」が来日して、それ一点で膨大な観客を呼んだ実績は首肯できるにしても、それに近い働きを、ゴーギャンのこの絵一点に務めさせることができる時代になったというわけだ。
こういう近代画家の作品一点の名乗りの下で、展覧会が企画されるような事態が、今年はこれでもう二度目になる。そこに美術鑑賞における大衆的普及浸透の、良くも悪くも、新しい時代の到来を否応無く感じざるを得なくなるのだ。
二度目といったのは、既に昨年末から今年の二月に掛けて、名古屋市美術館で「モネ『印象 日の出』」展が催されていたからだ。この展覧会では、パリのマルモッタン美術館から、近代絵画史上、印象派運動の更始としての歴史的意義を持つ、モネの「印象日の出」一点を借り出して、それをそのままタイトルに掲げ、後は、国内にあるモネと印象派の画家たちの作品で集客しようという展覽会だったのである。これは、もう「ゴーギャン展」以上に徹底したせこい遣り口である。
一体、私がモネの「印象日の出」に始めて出会ったのは、上野の国立西洋美術館で催された「モネ展」で、一九八二年の秋のことだから、もう四半世紀以上昔のことになる。その「モネ展」は、モネの作品七〇点と、ルノワールが描いた、モネと、モネ婦人の肖像画二点の、七二点によるものだったが、そのうち、ルノワールの二点を含む二二点がマルモッタン美術館から借り出されたもので、その一点に「印象 日の出」があったのである。その残り五〇点の内、国内からの出展は、国立西洋美術館所蔵の八点を含む一六点で、三四点は、諸外国の美術館や個人蔵のものからの出展だったのである。
その時、私には、「印象日の出」の他、ボストン美術館 から借り出された「ラ・ジャポネーズ(日本娘)」に出会えたのが嬉しく、今もそのモデルを勤めたモネ夫人カミーユの、扇を開いて掲げ持つ西洋人らしい白い手首が印象に残っていて懐かしい(注1)。
ここまで書けば、今度のモネ展がいかにせこいものか、もう納得して貰えるであろう。
それでも結局、私はモネの「印象日の出」にまた会いに、一月二〇日、市の美術館へ出掛けてしまったのである。
たかが五・六〇センチの「印象日の出」一点だけで展示室一部屋を使うという特別な扱いぶりに、前に記した「モネ展」の半分の三六点しかないせこさが重なって、会場が肌に寒々と感じられてしまう。唯一、出展数の少ないお陰で、時間を掛けてゆっくり見ることができたのが救いというもので、緩慢な歩みが、モネ、ブーダン、ピサロ、シスレーといった画家たちの風景画の空の表現、その殆どに描かれていた雲の表現へと私を誘った。描かれた雲の佇まいに、移ろい流れて行くものの変化の実相をどこかで私は感じとっていったのでろう。それが天空の姿であるだけに、展示作品と客足の少ない侘しさに乗って、底のない寂しさへと私を誘い込んで行ったのだ。すると、「印象日の出」に描かれていた朝靄の中のそれだけ赤い日の出が、ひどく孤独な姿の徴として脳裏に染みてもくる。
こうして私は会場を後にしたのだが、これが、せこい展覧会が私に齎しくれた今日の御褒美かと身を竦めながら、当日のどんより曇った冬の街へ足を運ぶ結果となったものだ。
それに比べれば、この「ゴーギャン展」の方は、作品「我々はどこから来たのか/我々は何者か、我々はどこへ行くのか」が、何よりも「印象日の出」とは、大きさも運搬の苦労も比較にならぬ壁画的大作であること、従って、本邦初公開のこの機を逃せば二度と相見ること適わぬと思い込まれもするわけで、私には是非にも見に行かねばならぬ展覧会となった。
それにしても、モネやルノワールや、画家としての葛藤相手だったゴッホの展覧会に比べると、ゴーギャンの展覧会は、企画されることが少なく、これまで、私の見たゴーギャン展は一度しかない。
その「ゴーギャン展」は、先の一九八二年の「モネ展」より遅れること五年、一九八七年の夏に催されたのだが、私はそれを愛知県美術館で見たのである。この展覧会は、「モネ展」の出展数七二点の倍を越す一五一点の展示によるもので、その充実ぶりは高く評価できるものだった。とりわけ、私が最も興味を抱く油彩画だけでも、各国から六五点が集められる見事さで(注2)、お陰で、ゴーギャン独自の緑の樹木と赤い土との織り成す深い色彩の世界に、すっかり魅せられることになったのである。以後、私は、ゴーギャンという画家の、その緑と土との濃厚な色彩にずっと取り憑かれ続けている。
因みに私は、ゴッホの色彩にも好感を持っているが、ゴーギャンほど魅せられてはいない。
そういうゴーギャンの色彩に対する心の傾きに煽られもして、今度の展覧会への憧れは肥大化激しく、五月三日、私は金山の名古屋ボストン美術館に出掛けた。
開館前に着いたら、美術館の建物の一階エスカレーターの乗り口まで蛇列が出来ていて、連休中とはいえ、この展覧会の人気のほどが伺えた。お陰で開館後、四階の切符売り場まで、三〇分程かかって入館することとなる。
しかし、館内は思ったほど混雑を感じず、急かされないで見ることができたのが何よりだった。
展示作品のうち、ボストン美術館から持ってきたものは目玉の大作の他は、油彩四点、版画一一点、木彫の板三点の計 一九点で、これに国内からの、油彩八点、水彩四点、彫像二点、版画一一点の、計二五点を加えた、全四四点による展覧会だった。数だけから考えれば、今回の「ゴーギャン展」の「我々はどこから来たのか...」の大作一点は、先の一九八 七年の「ゴーギャン展」の作品一〇〇点分に匹敵することになるのだから、余程目を据えてかからなければならないと言うことになるわけだが...、はて。
ともあれ、出展順に見て行くのだが、始めの数点、一九八二年から八六年迄の風景画は、筆の線描が印象派の遠近感を作っていて、例えばピサロやシスレーに通じるような作品になっていることが分かる。それが、八八年からタヒチへ渡る九一年迄の三点、中でも東郷青児美術館の「アリスカンの並木道、アルル」と、ボストン美術館からの「二人のプルターニュ女のいる風景」になると、線描が残っていながら、それが面として潰されるように描かれていて、その分、土の赤、草木の緑が、濃淡のある何種もの赤と緑による面的な構成を生みだして、色の重力を増したことが見て取れる。因みに、八八年は、アルルでゴッホと共同生活を営んだ年であり、そのゴッホが悲劇的な死を遂げたのは九〇年である。私が魅せ られてきたゴーギャンの色彩は、この時期に創造され始めていたことになる。そして、タヒチの時代の作品に移る。
そこでは大原美術館の「かぐわしき大地」に出会う。これは、二〇年前の「ゴーギャン展」にも出ていたが、私には、我が国に所有されているゴーギャン作品の最高傑作ではないかと思われているものだ。倉敷で御覧になった方も多かろうが、その絵は、緑豊かな巨木を背景に、茶色い肌のはちきれんばかりの全裸の女性が、逞しい脚を据えて大地に立ち、その足元に生えているピンクの花の一花を今まさに摘み取ろうとしている場面を描いた作品である。その女の肩先には、女の顔の方に嘴を向け、真っ黒な蜥蜴のような体に真っ赤な羽を広げた怪鳥が描かれている。女の摘もうとしている花が林橘の、怪鳥が蛇の代わりだとすれば、ここに描かれているのは、タヒチの世界におけるイヴであって、そうだとすれば、ゴーギャンがタヒチに見込んだ、罪に堕する人間の到来以前の、その到来を予測させる神話的世界だということになろう。
ところで、おそらく加藤周一は、この絵をイメージしてのことであろうが、
晩年のゴーギャンの絵を見ると、そこにはヨーロッパが失ったあらゆるものがある。神話、野生の花、薔薇色の空、紫の土地、真紅の布、黒い髪と褐色の肌の女たち。女たちは、生い繁る樹木のように、大地から生えている。しっかりと土を踏んで、ほとんど根をそこにおろしているかのように立っている。彼らは自然のなかに融けこみ、大きな花や厚い繁みと同じ資格で、自然の一部となり、その全体が「かぐわしい大気」(『ノア・ノア』)に包まれている(注3)。
と言っていて、その言葉は素直に私の中に融け込んでいる。
一体、土と緑は、自然の本質を語る以外の何物でもあるまい。緑は、土によって生きる命の徴であり、茶色い土は命を育て死せる命の帰る場に他ならない。おそらく、私がゴーギャンの赤と緑の深い色合いに魅かれるのはそれあってのことではないか。
このあと何点も続いた、小さな木版作品は、時には、何が彫られているのかさえ見分け難い、黒と、黄色と茶色とで作られた図柄なのだが、それは、恰も、夜、又は死の暗黒と、それに包まれているに過ぎぬ命の土と、僅かな昼の黄色との織り成す、ゴーギャンの抱え込んだ現実の徴のように見えてくる。
数少ない出展ではありながら、私には、本展企画者の意図と言うよりは、ゴーギャンが生き辿った道筋のゴーギャン自身の意識に、自分が間違いなく嵌められてきていることが分かる。そうして、大作一点を掲げた部屋の前に出る。
「我々はどこから来たのか/我々は何者か/我々はどこへ行くのか」は、縦一メートル半近く、横は四メートル近い作品である。その大作の深い緑の輝きに、思わず「オッ!」と。声が漏れる。日曜美術館で紹介されていたテレビの映像よりも、この緑の輝きの一瞬の鮮烈さは遥かに抜きん出て際立っていたのだ。絵の具が光ることによって色が浅くなるのではなく、緑の色の深みそのものが輝いて見えるのだ。どんなに神秘的な深い森の緑からだって感じ取れないような「気」を、私は感じとっている。私に声を上げさせたものは、おそらくその「気」だ。私は、この「気」を送り出すように案配してくれた展示照明の係にカンシャ!である。
絵は、この緑の中に、さまざまな人物と動物を包み込んで出来上がっているのだが、視線は、まず、画面を括っている中央右寄り、縦一杯に立つ、褐色の人物像に注がれる。その人物は腰布を巻き、両腕を上げ仰向いて赤い林檎の果実を取ろうと身を伸ばしているのだが、胸の有り様からして男性である。
と同時に、画面左半分の真ん中奥に、こちらを向いて黒い台座の上に、絵の上半分の高さで立つ石像一体が目に入る。この青みを帯びた暗灰色の石像は、背に丸い石を光背のごとく背負い、畳んだ両腕を左右に開き掌を外に向けて立っている。陰った顔と胸元からすれば女性であり、とすれば、これは石造のタヒチの女神像ということになりそうだ。
どうやら絵は、林檎を取ろうとする男の右半分と、女神の石像を真ん中にしての左半分の世界とに別れているようだ。
その右半分の、画面右端下には、岩の上に眠る幼子が描かれ、その左には、土に近い地肌の三人の女が土上に座している。右端の女はこちらに背を向け、他の二人はこちらに視線を注ぎ、とりわけ真ん中の女は首を傾げてこちらを誘うかのように見える。さらにこの三人の左奥に、こちらは裾までのピンクがかった衣服を纏った二人の女が、何か語らいながら右手へ歩を進めている。その二人の手前左、つまり、木の実を取ろうと立つ男の右後ろに、頭に手をやって後ろ向に座っている逞しい女が一人描かれている。また幼子の頭許には黒い犬が一匹、これも座っている。
一方、石像を真ん中にした画面左側には、例の木の実を取る男の左足許に二匹の猫が描かれ、猫の左には、赤い木の実を口元に持って、足を投げ出して座っている少女がおり、その少女の左後には山羊ほどの大きさの黒っぽい犬が、こちらは首紐をつけて座っている。この犬の奥に石像が立つのだが、その石像の右奥には濃紺の衣を来た黒髪長い女が一人、胸に手を当てて画面の右手に目を遣っており、その足許には雌の孔雀と思われる鳥が一羽描かれている。黒犬の左には、腰布を纏った裸女が右腕を支えに左に体を傾けて座し、更にその左には、布を頭に被った女が両手で顔を覆うようにして膝を立てて蹲っている。右隣の女に比べ肌は黒ずんで描かれ、その女に寄せる恨めしげな視線が際立っている。そして、他の座している人物達には描かれていない黒い蔭が、この女の尻の下だけにははっきりと描かれている。そしてその女の足先、画面の左下隅には、一羽の白い鳥(白鳥ではなく、家鴨に近い姿をしているが、ひょっとして信天翁かもしれない)が立っている。
こうして見回してみると、右手から左手へ、「我々はどこから来たのか」、「我々は何者か」、「我々はどこへ行くのか」の順で描かれて行っていることに気付く。
右から、「生まれ」、「屯して生き」、「禁断の大の実を食し罪負う存在として生き」、「死への道を辿り」、「死後を鳥に託す以外にない」そういう生涯だということを、凡そ語っているように見える。それが深い緑に包まれて描かれていることによって、日本人の私には、そこに、輪廻の観念が宿されているように見えてしまう。石像も、私には仏像を連想させ、さまざまな動物も、その輪廻観を裏付ける存在に見える。
それあって、全体を覆う緑の画面が、最も自然の実体を示唆して、こちらもすーっと包容してくれているのだと思われ、安心できる。
これは、やはり一見の価値が十二分にある、私にとっての傑作・大作だった。
この、ある意味での至福の感覚をできるだけ逃さないように、静かにそっと帰ろうと私は思い始めている。もう下種な計算高い皮肉の念などに私は堕したくなかった。
この時、同美術館の五階では、「ノリタケデザイン一〇〇年の歴史」展が催されていた、こちらも覗いたのだが、日本の洋食器の、お手軽ではない出展によって、そのカラフルな デザインの歴史を面白く辿ることができ、一つの収穫になったことも記しておかねばならない。
(二〇〇九、五、一三)
(注1)作品「ラ・ジャポネーズ」は、「印象 日の出」の一八七三年より後の一八七六年に製作されている人物像だが、青みを帯びた灰色の壁に日本の団扇を十数点とりどりに張り付け、その前に、金髪の女性に金銀の刺繍の施された赤い裾長な打ち掛けを着せて立たせた作品で、とりわけその打ち掛けの写実に徹した人物描写に特徴があり、流動的表現にその特質を持つモネの作品の中では異例な傑作だと思われる。
(注2)この時、油彩画の日本からの出展は、国立西洋美 術館の三点、ブリジストン美術館の四点、大原美術館とポーラ美術館との各一点の、計九点が出品され、海外からは、一七ヶ国五四点が集められていた。中でも ロシアーー当時はまだソヴィエト・ロシアだったーー からは、エルミタージュ美術館から七点、プーシキン 美術館から二点が来ていた。ボストン美術館からは一 点の出品があったに過ぎない。
(注3)「褐色の肌の楽園」(『加藤周一セレクション4』平凡社、二000年、所収)。なお、引用文中にある 「ノア・ノア」は、最初のタヒチ行から帰国した一八九三年から翌年にかけて執筆されたゴーギャンの紀行文。「ノア・ノア」はタヒチ語で「かぐわしい」の意である。