師走の六日、私は十時過ぎの新幹線で下阪し、天王寺公園にある大阪市立美術館へ『国宝三井寺展』を見に出掛けた。
この展覧会一つに下阪したのは、テレビで紹介されていた、通常は見ること適わぬ三井寺の秘仏数点の映像に魅入られ、すっかり腑抜けにされてしまったからである。とりわけ、智証大師と新羅明神の坐像の異様な迫力は、私の夢見を悪くするほどに、脳裏を侵してしまったのである。テレビという化け物にも困ったものだ。ともあれ、美術館に着けば、既に十一時半を過ぎていた。正面中央の階段を上がって二階から一階へと見て回ることになっている。
その入室最初の部屋に、いきなり、寺の秘仏が開示されている。その出し惜しみをしない真正直な展示ぶりに一驚する。この衝撃を基に、秘仏に対する賛嘆と以下の展示への期待とを増幅せしめよう魂胆かと、思わず勘ぐってしまう。
その秘仏の国宝五点の中で、智証大師の座像二点と新羅明神の座像の木彫三点が、私を釘付けにした。智証大師は二体とも同じ姿で座し、その頭の形は、どちらも蔕を下にして立てた団栗の実よろしく頭頂の細まる奇態なもので、相似た顔の造作ながら、その表情の微妙な差がこちらを引き付ける。顔の顔料の剥落が目立つ「御骨大師」の方は、残った口紅の朱色が、その閉じた目の瞑想振りと、不思議な愛らしさを表情に留めているし、顔の肌色が頬に残る「中尊大師」の方は、薄く開けられた眼差しに瞑想する大師自身の無心への勉めが伺える。
そして、新羅明神の座像である。二体の智証大師の座像より一寸低めの大きさなのだが、大師像と違って、スマートで真っ白に彩られた面長で中高な相貌の、その異形の迫力と言ったらない。その白人的な白い異形の迫力のせいでか、却って大ぶりに見える。鳥帽子風の冠り物の下のその真っ白な顔には、眉間を窄めて細い眉が長く流れ、その眉間の下から左右に垂れる目は、黒い瞳をこちらに向けて金色に見開かれている。さらに、見慣れた仏像の鼻とはまるで異なる鋭く高い鼻梁の下には、閉じられた唇の真っ赤な色が肉感的であり、その朱唇の下の長めの顎には、顔の長さ程の顎髭が鋭く三角に下がり、その色はかなり剥落してはいるものの、緑掛かった黒っぽさを見せて、際だった異人らしさを造形している。
それにしても、このように異相の彫像が、源氏物語や枕草子の時代に造られたというのには、口あんぐりだが、このような白色の明神として異人を造形することを可能にした、白人に対する情報的背景が間違いなくあったということにもなるわけで、いや増して唖然とならざるをえなくなる。
この後、鎌倉・室町・江戸の各時代にそれぞれ描かれた「新羅明神像」の幅三点に出会うことになったのだが、どの像も面相白くは描かれておらず、茶褐色の黄色人種の相貌であったことからしても、この特異な顔貌の希有な彫像の、まさに明神」と呼ぶに相応しい価値というものは、どれだけ喧伝してもし足りるものではない。
秘仏には他に重要文化財の「不動明王立像」と「如意輪観音座像」があったが、前者は体に塗られた金泥を始め、着衣の緑や朱の色が殆ど剥落せずに残っていて、余りにも生々しく、後者の、すっかり金泥がくすんでしまって、眼差しを伏せ顔を傾けて座す如意輪観音の、そこに愛らしささえ伺われる相貌の有り難さには遠く及ばない。してみると、仏像における古びは欠かせられないものに思われる。元の姿が陰り失われて行くその無常こそが、仏像の命を形作っていることになる。それをこの秘仏二点が私に論してくれたことになる。
その後、円珍自筆のものをはじめとする国宝の文書多数が展示されていて恐れ多い限りだが、そこは早々に御免を蒙って、私の目は、専ら仏画仏像の展示に走ることになる。その結果の収穫が、二点の彫像と、二点の画像ということになった。
二点の彫像の一点は、重文の「護法善神立像」という平安時代の作になるほぼ等身大の女神像であった。取り立てての肉付きもなく何の動きも体に見せず、しかし肉体の温かさをずっしり備え、どこか母性的な佇まいを見せてその女神は立っていた。それを実感させてくれるのは、間違いなくよく残されている像の彩色によるものだと伺える。残された白っぽい色のために、帯紐や衣装の図柄が見届けられ、とりわけ、 化粧の白さと朱唇のけさやかさは漆黒の髪と相俟って、細い目の眼差しの顔立ちを厳しくずしりと重いものに仕立ててい る。その顔立ちの厳しさをずっしりした体躯が、見事に受け止めて穏やかに見せている、そんな女神なのだ。左手にはその朱色から石榴を持っていると分かるが、それならこれは鬼子母神だということになる。そう察してくると、色の落ちがひどくすっかり黒ずんでしまっている像の膝下の部分の正面に浮き彫りに彫られているのは、赤ん坊のように見えもしてくる。しかし、それがそうだと分からなくても、この像の母性的なるものの力は紛れもないものだ。
そして、もう一点の彫像は、これも重文だが、前作とは比較にならぬ高さ五十センチにもならぬ小像で、母親が子どもを膝の上に乗せて座している「訶梨帝母倚像」と題された作品である。鎌倉時代の作とあり、衣服の作りを始めとして、彫りが写実的になっており、それだけに、たちまち、そこに西洋の聖母子像を重ね見てしまうような親しさを持っているーーと、記しながら、日本の宗教的作品を、西欧的な宗教作品を基準にして見ている、日本人である奇妙な自分のありように、それを日頃から分かってはいるものの、やはり私は些か狼狽してしまうーー。ともあれ、その母像が右掌にやはり石榴を乗せているところからすれば、これも鬼子母神ということになり、詞梨帝母とは鬼子母神を指す梵語に発している語だとわかる(注1)。
そのふっくらした面差しは、膝上に左手で抱かれた赤子に向けられ、赤子は両の手を上げ、瞳は間違いなくその面差しに向けて注がれている。母子の眼差しが交わる確かさが、下に垂れる袖や足元の裾のゆったりした彫りの曲線によって、小さいながら豊かな優しさを醸成している。堂上に乗せてその重みを実感してみたくなる作品だった。
これに対し、二幅の絵画はどちらも三井寺のものではなく、円珍に縁のある仏として出展された作品だった。
一点は和歌山の竜光院が持つ国宝「伝船中湧現観音像」であり、もう一点は和京都三室戸寺所蔵の「尊星王像」で、前者は平安時代、十二世紀のもので後者は室町時代、十五世紀のものだと知れる。
前者は、その名称からしても、船中に現れた観音様を表したものだと言い伝えられている軸のようだ。きっと唐へ渡る船が嵐などに会ったときに現れ救ってくれた観音なのだ。その豊かな黒髪とそこに冠せられた宝冠からしても、その豊頬と金糸の衣装に身を包んだ豊かな姿とからしても、極めて女性的に見えるそこが何ともいい(注2)。ふくよかなその顔は、眉を顰め、憂いの眼差しを下界に放って、小さな朱唇が物言いたげに見える。来迎印に結んだ胸元の右手に蓮華の一茎を持って、心持ち膝を屈し腰を落としたようにして、平らな台座の上に立つ姿は、こちらの視線を下げて見上げるようにすると、軽く宙に浮いているように見え、そこには、ある体温さえ感じられそうな快さがある。
こんな風に感じられるのは、恐らく描かれた当初の燦然と輝いてまぶしかった金色が、いつか色褪せ沈んだために身近に見届けることができるようになったからに違いない。古びが齎す美的効能を、私は有り難くここでも実感する。
ところで、この軸は丈が一メートルにも及ばないものだったが、後者もそれと同じ位の軸で、この絵に視線が及んだのは、仏画には珍しいスピードが感じられ、描かれている「尊星王」なる者にとんと覚えがなく、絵が私にはミステリアス だったからである。
沸き立つ雲上の竜の背を、左足で踏ん張って右足を蹴上げ、敬しく天衣を靡かせて風に向かって四臂の女王が立っている。女王と見えるのは、円光を背に両肩に髪を流して下界を見やる目と眉の細やかな長さと、髪を飾る金の冠のためである。上の二臂は右に赤い球を、左に白い球を支え上げており、下の二臂の右は筆を、左は巻紙を持している。もしこの王の捧げ持つ赤い球が太陽で、白い球が月であるならば、この「星王」は「北辰」と称される北極星を表していることになろう。しかも、面白いことに、この星王と竜の手前には、仰いで跪く赤鬼の子どものごとき赤い童子が描かれており、差し上げたその手には硯が捧げられている。童子の髪も天衣もやはり風に激しく靡いている。鬼ならば、これを羅刹と言うのだろうか。それにしても、星王の手にする筆硯の具が何を意味するのか、北辰ならば、我々にとって中天に不動の星なのに、雲上の竜に乗って風を切って飛翔するとは何事なのか、無知な私には不思議不可解な作品だった。
絵画では、曼陀羅図や不動明王像など、他にも見るべきものがあり、彫刻では、吉祥天立像や冠り物が面白い小振りな釈迦三尊の座像などがあったが、今はこれまでとしよう。
ただ、会場の最後に「フェノロサの愛した三井寺」と題し て、フェノロサ関連の遺品二〇点ほどが展示されていたのは、私には興味深いものだったが、ここでは、彼の遺骨は、彼の遺志により三井寺法明院に埋葬されたことだけを記しておく(注3)。
私は堪能して会場から外に出た。
既に一時半になっている。
天王寺の地下鉄駅の地下街に蕎麦屋があったことを私は思い出す。行って見ると、空いているのはカウンター席だけの繁盛振りである。そのカウンターの席に座って、天ざるを頼む。待つことしばしして、出てきた天麩羅に驚く。名古屋の天麩羅とは量が違う。第一海老天の大きさが違う。これで千五十円とは。さすが大阪と感嘆して箸を取る。天麩羅は揚げたての熱々で、蕎麦ツユとの折り合いも申分なし。
蕎麦湯も熱々ーー名古屋でこんなことは経験したことがないーーで、季節柄この一服が体を温め快い。
私は重ねて堪能した。
二時半になろうとしている。久しぶりに道頓堀を歩いてみようという気持ちが兆す。
揚げ句、帰りの列車は四時四〇分のひかりになった。
その列車の中で、私は今日の堪能の収穫を確かめ直そうと、求めた図録を開いた。
たまたま巻末の「三井寺関連年表」の項に目が及び、その、最終項目の辺りに目が行くと、その平成二年(一九九〇)の項に「名古屋市博物館・京都国立博物館・東京国立博物館において『三井寺秘宝展』を開催する」という記事があるのに気づかされた。「はて」と私は図録を閉じたのだが、途端に、疑念が生じ心が灰色に蟠る。その蟠りを抱え引きずって、六時半に自宅に戻った私は、妻との話もなおざりに、何はさておき図録の蔵書目録を改めないではいられない。そしてあった。紛れも無く一九九〇年に催された『三井寺秘宝展』の図録である。そこに名古屋市博物館の同展の入場券が挟まれてもいる。
急いで繙けば、秘仏を始めとする仏像、仏画、書跡、障 壁画から工芸品まで、そのほとんどが、今日見て来たものと重なっているではないか。
唖然!口あんぐり、狐につままれるとはこのことだ。
一体、私の記憶力はどうなっていたのだろう。仏像として極めてユニークな顔の「新羅明神坐像」の記憶すら蘇りはしなかったのである。これはどういうことなのか。十八年前の三井寺秘宝展の記憶がかくも皆無だったということは、今回のような感動が皆無だったということか。見る対象に対する私の興味・感興が、私の感受性が、十八年前とは変わってしまったということか。齷齪追われるように日々を過ごしていた定年前の自分から定年後の今の自分へ、私はすっかり変貌してしまっているということか。私は私という生き物がさっぱり分からなくなる。これは笑うに笑えない。
ひょっとして、それだけ、老いが仏の世界に私を近づけてきたということだろうか。
自信喪失に伴う自分に対する惑乱が、私の今後に尾を引いていきそうで、今夜の夜の時間とともに私の闇を深くする。しかも、どうやらこれが今年を締めくくる展覧会回遊記になるであろうことを思えば、この闇に相応しく、私の新年の美術展歩きも、暗澹としたものに見えてくる...。 昼間見た「新羅明神坐像」が鮮明に脳裏の闇の中に笑いを浮かべているように見える。私はぶるるっと首を振る。
風呂にでも入って、せめて今日の疲れだけでも温かい湯に流したくなった。
(二〇〇八、一二、一五)
注1 「鬼子母神」は、千人もの子を生みながら、他人の子を食っていた鬼女が、釈迦に諭されて改心し、子どもの守護を誓い、それを行ったところから、呼ばれることになった名である。「歓喜母」「愛子母」とも言う。なお、「倚像」とは、台座に凭れて腰掛けている像を言う。
注2 ヨーロッパの港町に行くと、海に臨んで立つマリア像にお目にかかることがあるが、それを見てきている経験が、いち早くこの観音像に女性を見込んでしまうことになったのかもしれないと思う。
注3 先に、『緑』五八〇号に「フェルメール人気って」を掲載したが、そこで扱った狩野芳崖は、フェノロサ の影響を抜きにしては考えられない画家である。因みに、東京芸術大学美術学部の前身東京美術学校の設立は、岡倉天心とフェノロサの尽力によるものだと言ってよい。