(承前)
三
明くる日、Sは約束の十一時に上野の文化会館前に笑顔で現れた。彼には今度の目的を既に語っていたから、ハンマースホイを観るべく、すぐ西洋美術館へ足を運んだ。
土曜日のことでもあり、相当な人出なのだが、その流れは、西洋美術館の前を過ぎて、動物園の他は都立美術館の方へ向かっているように思われ、どうやらそれは、九月に来て見たフェルメールの人気が依然として衰えていないということであろうか。それに比べれば、ハンマースホイの方は日曜美術館での紹介も、それほど効果のないのがよく分かる。
人出の少ない分、静かにゆっくり展覧会を見ることができ、それはまさしく本展の作品に相応しい環境作りになっていた。人気の乏しさが作品を生かすこの現実を知ると、日頃チョーの字のつくほどの人気の展覧会を喜んで見ていることが、一面で仕様がないとは思うものの、ひどく情けなく思われてくる。
展示は、まず初期二十代の、三・四十センチの比較的小ぶりな習作的作品から始まり、その中に、妹アナと妻になる娘イーダの、それぞれの一メートルほどの大きさの肖像画があったのだが、とりわけ帽子を被って椅子に掛けたイーダを正面から描いた一点は、私を釘付けにした。
イーダは、その帽子も衣装も、お洒落を感じさせるところが皆無で、装飾的なものは何一つ身につけず、娘らしい若く華やいだ色彩がどこにもない。顔立ちも斜めから見た妹アナの目鼻立ちのように整ってはいず、口紅さえ施されていない。美形とはとても言い兼ねる、灰色の瞳の、質素で地味な若い女性が正面から見据えられているのだ。しかも画家は、この妻にする女性を暗い土色の壁を背にして描いている。
私は、こんな風に描かれたイーダという女性に対する、画家の、浮薄さの全くない、揺るがぬ愛の眼差しというものを、アーもスーもなく認めさせられてしまう。そして、こんな風に見据えられてそこに座すイーダという女性の、目立たぬ地味な、つまり虚飾のない、それだけ物堅い実質の確かな魅力が、私の胸に応える。胸に応えるのは、それが、表層的で軽薄な現代の風潮から全く遠く、そういう風潮の中で、自分を見失うようにして過ごす、軽薄化した自分に向かって突き付けられた詰責になっていると痛感されるからだ。
それだけ、ハンマースホイの傍らで生きたイーダの命が愛しく悲しくなってくる。
いずれにしろ、この作品が、私にとって、肖像画の傑作として忘れられることのない一点になるだろうと確信的に予感されてしまう。
そして、ハンマースホイという画家の二十代におけるこの眼差しは、この画家の資質を語ってどうやら余すところがないものだと分かってくる。
この二十代の作品の次ぎは、彼が、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、つまり彼の三十代に描かれた自然や建造物の風景作品が並ぶ。
並んだ屋外の光景のどこにも、人っ子一人動物一匹描かれていない。建物も空も冷たい暗灰色の佇まいの中で、すっかり沈静化した風景として描かれ、それは、まるで内心が抱え込む孤独というものの投影としての外景のように見えてくる。まさにそれは、北欧的寒冷暗恢を内に抱え込んだ孤独だ。自然の景として描かれた木立そのものは何故か寂しく立ち、湖水の彼方、空高い曇天の下の広大な野に生え立つ木々も、孤独な人間の佇まいを語っているようで、その寒さが、しみじみこちらに伝わり、もしコートを纏っていたら、その襟を思わず立てたくなるような気分になる。
そして、こういう眼差しが外界から室内に向けられるとき、そこに、ハンマースホイの人物画が登場する。
そこには友人の肖像や自画像もあるが、何と言っても妻イーダを扱った作品がこちらを惹き付けてやまない。
テーブルの白いコーヒーカップをスプーンで掻き混ぜている、そそげた髪のまま何の飾りもない黒い襟なしの服を着た「イーダの肖像」、その肖像画と髪と服との全く同じイーダが、白い布地に針を運んでいる「裁縫机の女性」、これまた そそげたままの髪と黒い衣装とのイーダが、机に肘を置き椅子に掛けて開いた書籍に目を落としている「読書する女性」、隅に金属製の円柱型ストーブの立つ部屋で、テーブルの上のガラスの花瓶に、白い前掛けに例の黒い襟なしの裾長ワンピースを着て、面伏せに葉群れの茎を生けている「花を生ける女性のいる室内」等の、全く特徴のない、反復に過ぎないイーダの日常的仕種の中に、静謐な暮らしというものに対する作者のいとおしみの眼差しを感じてしまう。
イーダは部屋の中で、一人、立っているか座っているかしているのだが、その殆どがこちらに背を見せているのだ。三十点近い作品中、顔が描かれているのは五、六点に過ぎない。しかもその姿は、一点を除いて、全て足許まで黒い襟なしの ワンピースで覆われているのだ。つまり、イーダに「活動」と「開放」の語は封じられている。封じられているのは、恐らく彼ら夫婦にどうやら子供がいなかったことに負うている ように思われてくる。
変わり映えのしない日々の反復しかない、じりじりと過ぎる生の時間というものを夫婦二人だけの室内で感じざるを得ない、自分たちの実存というものを、「静謐」の二字に封じ たとしても格致し方のないことであろう。
そして、この静謐が徹底すれば、誰もいない、部屋だけを描いた十五点ほどの作品に結晶することになるのではないか。
この室内の風景には、机と椅子以外には、殆ど家具というものさえ描かれていない。多くの場合、隣室に通じるドアは開けて描かれているが、家財道具のない屋内の部屋というものが醸し出す、ガランとした空虚感がそこにはある。
ここにあるのは、生涯を連れ添うことになるイーダという娘を、これ以上ない地味さで描いた、ハンマースホイという男の世界認識そのものであると言っていいだろう。つまりここにあるのは、住まいし暮らす日常的空間=部屋というものが抱え込んでいる空間というものの本質・普遍性であろう。しかもそれが普遍性であるからには、あり得ぬ虚構的空間でもあるということになるはずだが、その虚構的空間と化した最も普遍的日常的な場としての室内というものを、実景として描いて見せているわけだ。それが、この多数の部屋の作品群の語る意味のようにみえる。
この本質的・普遍的日常が、あまりに日常的であることによって生み出されていく非日常的虚構性というものに、囚われ没入していくハンマースホイという男の、息を殺して生きるような五十一年の生涯に、私は、人間の孤絶した存在というものを感じて切なく息苦しくさえなる。しかも切なくなる分、間違いなく、そこに置かれたハンマースポイという自己が呼吸している、その命の呼吸を、私も呼吸してしまうのだ。
そこにあるのは、私にとっては、寒くて温かな震えのようなものだ。
私は、イングマール・ベルイマンの映画「野いちご」の教授のことを思い出していた。
私と友人Sとは、互いに一言も言葉を交わすことなく、重く沈黙を引きずって美術館の展示空間から出た。館外の日差しの日常の中に己を解き放つと、私は、「昼を食べよう」と言ったが、Sは、それには応じないで、ただ一言、ぼそっと「よかった」と洩らす。
四
ともあれ私達は、昼飯を東京文化会館二階の精養軒で、ビーフシチュチューの定食とコーヒーとを採って、取り留めのないお喋りを交わしながら二時まで過ごす。岡本太郎の壁画を見に私を案内するつもりでいたようだが、昨日見てきたと伝えると、Sは自分の役割を失ったからであろうか、一寸がっかりした表情を見せた。
そんなあとで、上野の森美術館に『レオナール・フジタ展』を見たのだが、Sは藤田の展覧会をこれまで見たことはないようだった。私にとっては、二〇〇六年の『生誕一二〇年藤田嗣治展』(これについては、既に「己が作りし顔の生きざま」に纏めもした)以来のことであり、数えてこれが四度目の藤田の展覧会になる。
何故敢えてまた藤田嗣治を見ようなどしたのかと言えば、幻の大作と言われた在仏作品の修復が終わり、本邦初公開となっていること、ランスのシャペル・フジタのための作品の下絵群が全て、これまた初公開されていることに牽かれたのである。
牽かれて入ってよかった。
藤田の、やはり生きることの罪を背負った孤絶した哀しみを、強烈に感じさせられたからである。
無論、展示は、先ず初期の作品から、藤田の発明した例の乳白色の裸婦像の成立の頃の作品までが、藤田ならではの自画像群をも含めて、藤田として成立する藤田の紹介によって始められる。その出展作三十点ほどは日本に所在するものばかりである。
そして今度の売り物、その修理を終え、日本で初めての公開となる五点の巨大な壁画的作品の展示に移行する。五点のうち四点は縦横三メートルの作品で、そのうち「ライオンのいる構図」と「犬のいる構図」の二点と、「争闘Ⅰ」と「争闘Ⅱ」の二点とが、それぞれ縦三メートル横六メートルのまさしく巨大な一続きの作品になっており、今一点は二・五メ ートルに三メートル位の「馬とライオン」という作品である。
確かに巨大な作品で、その大きさには圧倒されるが、例の乳白色を中心にして描かれた人体の群像からは、藤田独自のその線描と濃淡陰影の乏しい色彩の淡さとのせいもあるのであろう、絵としての迫力は弱い。しかし、このコーナーで私の目を引いたのは、その大画のために下絵として描かれた、何点もの素描群である。
あるいは一人の、あるいは二人三人の、男女それぞれの裸体像の、どれも一メートルを優に越える大きさの、鉛筆、木炭による下絵群である。これらは、間違いなく描かれた対象にこちらの目が集中され、その分、それらの下絵一点毎に込められた作者の迫力を実感しやすくなっている。
展覧会はここで一転して、藤田がその晩年を過ごしたフランスの片田舎ヴィリエ・ル・パクル村の一軒家、その藤田のアトリエの復元展示になる。
復元されたそのアトリエは、天下にその名の通っている藤田の仕事場としては、あまりにも広やかさに欠け、薄暗くて自閉症の籠もり場のように思われるのだ。
例えば神戸の小磯良平美術館にある小磯のアトリエのような、明るい佇まいのよさをまるで感じさせない。そういえば、去年南仏のエクス・アン・プロヴァンスにセザンヌのアトリエを尋ねる機会があったが、そのさして広くない古びたセザンヌのアトリエの天井の高い明るさに比べても、屋根裏の黒ずんだ天井板と床板との醸し出す薄暗い藤田のアトリエ空間の、閉ざされたイメージは拭いがたいものがある。しかも部屋の明るさを醸すはずの屋根内の三角形の白壁は、中央のキリストの磔刑図と、その左手一杯に描かれた聖母子像を真ん中にしてそれを取り巻く三十人はいようという群像とによって、見事に塗り込められ、藤田はその宗教画の前にキャンバスを立てて仕事をしたようなのである。
藤田は、自宅のこういう屋根裏部屋のアトリエで仕事をしながら過ごしたのだが、その自宅の外形をキャンバスに描き残してもいた。
その絵と、添えられたその家の写真とからすれば、藤田の家は道に面して建つ二階建ての一軒家でしかも、道はどうやら谷へ落ち込む傾斜面に沿って走っており、家はその斜面に建っているのだ。だから斜面に建つ家は、家の裏側からの写真では三階になっている。つまり、藤田の家は、大地に根を下ろす安定を全く欠いた、道の隅に、いつ谷の奈落に落ちていくかも分からないような、不安定な形と位置で建っていたことになる。
それは、私には藤田自身の存在そのもののように見えた。藤田が、日本人でありながら日本人として生きる道を捨てた不安定な己が実存を、充分自覚しているからこそ、こういう家を、自分の最後の居場所に選んだように思われてならなかったのである。
こうした藤田の最後のアトリエとその住まいとの紹介の 後、「シャペル・フジタ」の章の下に展示された、藤田の宗教画に出会うことになる。そこには一九二七年制作の、広島美術館が所蔵する金箔張りのキャンバスに描いた「十字架降下」や、パリ市立近代美術館所蔵の一九六〇年頃に描かれた「キリスト降誕」「磔刑」「黙示録の四騎士」などの一メート ル五〇はあろう大作群も出展されていて、藤田の一九二〇年代から始まるキリスト教画題に対する関心と、それを扱う力量に十分堪能できるのだが、ここでも、藤田がその人生の最後に取り組んだランスのシャペル・ノートルダム・ド・ラ・ペのフレスコ壁画のための下絵群が、本展の最後を締め括るに最適の傑作群として私を牽き付けたのである。
とりわけ、「キリスト降誕」「病者とキリスト」「十字架の道」「十字架降下」といった一、二×一、五メートルはあろう大きさの、木炭と鉛筆で描かれた人物群像の下絵の迫力は凄い。迫力が、描かれた人物相互の視線を核にしての関係の表出のリアリティに負うていることは紛れも無い。そこには自らの終焉を見据えた者の執念といったものさえ窺われて、見応え十二分の感動ものだった。その概念が、八十歳になろうとする彼の技術と体力を奮い立たせた結実としての下絵を間近にし、うーんと唸って脱帽した。脱帽しながら、脱俗達観からは凡そ程遠い境地に囚われて、自らがそこに眠ることになったノートルダム・ド・ラ・ぺの建築に拘り取り組んだ藤田の行為というものが、死を控えての自らの生活の孤独の深淵との葛藤のように思われ、揺るがぬ画家としての世間的な評価を所得しているだけに、悲愴の二文字を外して見る訳にはいかなくなる。
作られた聖堂はぺ=平和であろうとも、そして達成感こそあったにしろ、真に心の平和を藤田が持ち得たかどうかは疑わしい。むしろ持ち得なかったからこそ、折り願う場として「ぺ」の聖堂が建てられたと言った方がよいように思われる。
どうやら今度もまた、藤田の展覧会を通じて、矛盾の生を生きた藤田の孤独の哀しみに、私は振り回されてしまったようだ。
一階の出口の方に歩みながら、私の隣でSが「凄いなあ」と一言言い、「見てよかったよ」と今度もまた一言述懐した。「あゝ」と私も一言応じて、二人とも無言に戻ってしまう。
お茶でも飲んでのとは別れようと思うが、その席では、藤田の話だけは止めて、家庭のとりとめのない笑い話を交わし合って別れようと私は算段する。
(二〇〇八、一二、一〇)