さて、ホテルで一夜を過ごして、二十六日の今日、期する企画展を観るため、六本木のサントリー美術館に来ていた。観ようと欲している展覧会は、「世界に挑んだ7年」を枕にした『小田野直武と秋田蘭画』展だった。
尤も、今朝は、既に、地下鉄で表参道駅に出て、みゆき通りを根津美術館まで歩き、美術館の「開館5周年記念特別展」と銘打った『円山応挙―「写生」を超えてー』展を観ていた。
さすが根津美術館だけのことはある。応挙展は、国宝の「雪松図屏風」はもとより、重要文化財の五点を含む三十数点からなる堂々たるもの(注1)で、加えて美術館所蔵の、これまた国宝一点、重文十点を含む、仏教美術、古代中国青銅器、茶器からなる五十点を越す常設展示も行われていて、併せ観れば、曖気が出るほどの鑑賞になったが、それにしても、今日ここを訪ねた成果の大きさは改めて認め直すことができた。
しかし、今日の私の望みは、この美術館の屋外、つまり美術館の庭園の散策だったのである。そして、私は庭園の深い緑の吐息を吸って、胸の澄明度が増すを得た。
こうして、私は、再び表参道から、今度は六本木へ出て、サントリー美術館に向かったのである。
サントリー美術館の『小田野直武と秋田蘭画』展が、私の関心を引いていたのは、その語がどうして私の中に入り込んだのかは定かでないが、「蘭画(オランダの絵画)」と呼ばれる、新しく西洋から移入されるようになった絵画が、「江戸」ではない東北の「秋田」と結びついた美術様式として造成されていることが、不思議だったのである。
この美術史上の言語的にミステリアスな運動の、中心的存在だったのが、秋田藩士小田野直武であり、時の秋田藩士佐竹曙山もその同じ画家仲間であったことも聞き知ってはいたが、「秋田蘭画」の実態については、何も知らないといった体たらくであった。
それを知るきっかけが与えられるというのだ。嬉しくて胸が震える。
いつも通り、三階奥の入口から入館し、ロッカーに物を預けると、エレベーターで一階上がった、四階の展示室から観て回ることになる。
今回のその第一室は「蘭画前夜」の表示になっており、小田野直武の四五×三〇センチ程の小幅「神農図」が、最初の出会いとなったが、左下に「十二歳画之」の文字が見える。絵は、農耕の神と思われる白髪白骨の老夫が、着衣ゆるやかに目を剥いて、右手に薬草を持って口に咥え、左手には鍬を引いて立つ姿が描かれていた。ここに窺える、大人の絵を学び描く姿勢は、自由な描き方を讃えられ、それを特異とする現代の児童作品の出来振りとはまるで違う。
次も、直武の出生地である角館の、大威徳神社に奉納された、一メートル近い「大威徳明王像図」と題された絵馬で、その板絵の隅には「小田野氏源直武謹拝書」の文字が見え、奉納の年からすると直武十七歳の作になるようだが、その署名からすれば、既に一人前の絵描きとしての自覚を持っていたことが読める。
その後、英一蝶の「鐘馗図」を模写した、一メートル近い粉本が二点あったが、直武の墨筆の実力を充分感取できた。こうした直武の初期作品数点の後、このコーナーの最後には、直武より一年年長の、十一歳で秋田藩主になった。という佐竹曙山の「腋に松図」の一幅があったが、こちらは、図に松の枝を観ることはできても、表現から巌らしい姿も重さの筆刷けも見取ることはできなかった。
そして、部屋が「解体新書の時代~未知との遭遇~」と題された部屋になると、そこでは、杉田玄白が翻訳した『解体新書』と、その原本であるクルムスの『ターヘル・アナトミア』、ワルエルダの『人体解剖図説』が並べられており、西欧からの新しい知識の到来が示されていたが、その『解体新書』の表紙扉には、「解軆圖」と記した枠の左右に、裸のアダムとイヴの立ち姿が描かれているのだが、それが、ワルエルダの『人体解剖図説』の扉のスタイルを模し、その枠の左右に立つ裸のアダムとイヴの絵を写し取った物だということは、展示された各図を比べ見て、即座に了解できた。その「解軆圖」のアダムとイヴの扉の図を描いたのが、「小田野直武画」とガイドしてあったのだ。また、原書と訳書には、それぞれ人骨図等が描かれていたが、杉田玄白らから、直武が、その画才を認められていたこと、またそれだけ、彼は西欧の新しい表現に接する立場に恵まれていたことがわかる。しかも、展示物中に平賀源内の書簡があり、それに、直武との交際があったことも記されていた。改めて目から鱗である。
また、こうした新しい時代の絵画への影響として、海外から輸入されてきた植物図譜や動物図譜が紹介されており、重文指定を受けている「色絵五艘船文独楽形鉢(いろえごそうせんもんこまがたばち)」や覗き眼鏡の眼鏡絵として使われた、「阿蘭陀十景」の絵葉書的な作品までもが置かれていた。
こうして、三つ目の部屋は、「大陸からのニューウェーブ~江戸と秋田の南蘋派~」となっていて、一七三一(享保一六)年、長崎に来日した中国人画家沈南蘋の花鳥画が、南蘋派と言って江戸にまで流行し、直武は、その一七七二~八〇年の安永
年間、秋田藩士として江戸勤めをしていたらしく、この南蘋派の花鳥図の画風に強く影響を受けたようなのだ。
ここには、南蘋派の花鳥図が二十数点並んでいたが、中でも、その、江戸における派の中心的存在だった松林山人と、その山人に学んで、長崎にまで遊学した秋田の画家佐々木原書の作品が、それぞれ数多くあり、そのどちらもが、白梅、牡丹、菊の幅図を残しており、何よりも、その表現が、花や葉の輪郭線を極めて明確に描き残す点で相通じていた。
また、花樹と共に、鶏や鷹などの鳥が描かれている作品も結構あったが、どれも線描のしっかりした描き方で、中に一点、佐々木原善の「白梅鸚鵡図」は、画幅の中心に梅の枝に止まる真っ赤な羽の鸚鵡を描いており、時代のモダンを作画主張していることがよく窺えた。
そして、四つ目の部屋が、本展の中心になる「秋田蘭画の軌跡」となった。
その「軌跡」の初めとして、まず直式の描き残した、蘭画に特徴的な、遠景の風景の基盤となる「品川沖夜釣」「梅屋敷図」「江ノ島図」といった、展望的な広い風景画が何点も展示されていた。そして、その遠景の多くは、広がる水面と島との織り成す光景として捉えられていた。
その後、直武の三冊の写生帖の作品が広げられ、そこでは、植物の花葉の正確な写生図が、描き並べられており、とりわけ、そのくっきりした輪郭線で描かれた茎と葉が、、陰影を際立たせてスケッチされており、そこに、南蘋派の影響や、海外から移入された蘭画(洋画)の陰影描写の影響を見て取ることができる。
次には、直武の画才の広さを示す例として、「大黒・恵比寿図」や「人物図」の人物画が添えられていたが、そうした多才振りが紹介された後、「水仙に南天・小禽図」を始めとする、「秋田蘭画」と呼ばれるに至った絵画スタイルの作品六点が並べられていた。
その最初の作品が、白い花を敷く水仙の幾花かと高く伸びた枝先に実る南天の実、それに、その細い枝に止まる小鳥一羽が、題名通りに、幅の右寄りに描かれ、その樹と花の根方の土の彼方、そこに海を隔てて望まれる岬の景観が、横に靡くように描かれていた。
次の「芍薬花籠図」では、手前の岸に大輪の芍薬一花を納めた手提げ籠が、暗い色合いで絵の力を醸しており、置かれた籠の奥に二本の線が仕切られて、それが、その先に広がる水面の空間を暗示している。それに対し、「秋菊図」と「岩に牡丹図」は、どちらも、立った岩に、大輪の菊や牡丹が添い咲きした近景が作られ、その此岸の彼方に、水を隔てて彼岸の木立の見える遠景が描かれ、「蓮図」では、近景の蓮花と大きな蕾の葉の彼方に、木立を含んだ堤の遠景がほの見えるように描かれていた。
そして、六点目の最後が、重要文化財に指定されている、一×一、三メートル程の「不忍池図(しのばずいけず)」で、絵のサイズからして洋風だが、画面は、手前の池畔右手に立つ巨木の幹の下、場面中央寄りに、紅白二花の大輪の芍薬が咲く大鉢と、その陰に置かれた、金盞花のような花の咲く小鉢とを近景として、その向こうの池水の彼方に、不忍池ならば当然の、弁天堂とそれへの道が見え、さらに左手奥には上野の町が、うっすらと、しかし霞む事なく遠望されている。ただ池に蓮が全く描かれていないのはどうしたことか。ともあれ、この作品は、「秋田蘭画」の何たるかを構図的に優しく語っていた。
直武の絵は、その後、「三つまたの景」「富嶽図」「日本風景図」の三点で終わった。どれも、近景から遠景へと水の流れに導かれて奥へと展開する、木立や橋や船を伴っての茫洋の景で、どれも、なかなかの風情だった。
代わって、次は、藩主佐竹曙山の、直武の写生帳を超えんばかりの、多様な画材と取り組んだ「写生帖」が登場し、それに続いて、四幅の作品が現れたが、近景と遠景との織り成す景観を描いた、「秋田蘭画」らしい作品は、重要文化財に指定されている「松に唐鳥(からとり)図」一点だった。「唐鳥」とは外来種の鳥で、ここでは、「写生帖」に描かれていたインコと同じ姿で描かれていたが、そのインコは、画面を斜めに横切っている松幹から分かれた枝に、目立つ赤い羽をして止まっており、この松の根方の下方には、小さく船の浮かぶ海面と、その奥に横に靡く岬の木立、さらに彼方に広がる沖の姿が見えていた。しかし秋田蘭画的構図のものはこれ一点で、他は「松に棒に文鳥図」「稀に文鳥図」「竹に椿図」だったが、竹と松との表現は、その重厚さを感じさせる緻密なもので、その画才の確かさだけは認めることができた。
この佐竹曙山に続いて、佐竹家の分家で角館で城代を勤めた佐竹義躬の作品が五点続いた。彼は、同じ角館にあったこともあり、直武を師として絵を学び、秋田蘭画の継承に勤めたようだが、出展作品の四点までが、植物を中心に据えた近景に、豊かな海の水と彼方の陸地の遠景を重ねた作品だった。海の彼方、山並みとその中央奥に聳える富士を背に描いた「松にこぶし図」、身近に立つ岩に生える牡丹を描いた、同じ画材の三点もの「岩に牡丹図」があったが、どの絵の下も、水の表現は、シンプルながら、画面に奥行きを作るべく描かれ、秋田蘭画らしさを見せていた。
しかし、こうして秋田で広く描かれるようになった「秋田蘭画」も、これ以上に登場することは、もうなかった。
ただ、田代忠国という作家の「紅毛童子図」と「三聖人図」の人物を扱った二点が、この時代の日本画人物像として、油絵的な色彩感覚で描かれた点に特徴があり、特に童子の顔は、白く西欧的に描かれ異彩を放っているのが妙だった。
こうして、「世界に挑んだ7年」と断ってあった「秋田蘭画」の運命はどうなったのか、それを問い礼したくなり始めた時、この部屋の最後に、小田野直武の命運が紹介されていた。
何と、小田野直武は、一七七九(安永八)年の一一月、突如として藩主より遠慮を申し渡されたらしく、直ちに角館に帰って蟄居し、翌年三十二歳の若さで死去していたのである。佐竹曙山と直武の間に何があったのかは不明とのことで、贈山自身も、その四年後には三十八歳で没しているのだった。秋田蘭画が長く続かなかったのも無理からぬことだったのだ。
それでも、最後のコーナーとして設けられていたのが、三階に戻っての「秋田蘭画の行方」と題した展示室だった。
そこには、秋田出身の日本画家、平福百穂によって、一九三〇(昭和五)年に刊行された『日本洋画曙光』(岩波書店、三〇〇部限定出版)が置かれていたが、これが、二〇世紀になっての「秋田蘭画」の評価と研究の礎となったようだ。そして、それ以前に、最後の「秋田蘭画」の影響を受けた画家として、主催者は、江戸期最後の画家、司馬江漢を選び立てたようで、江漢の作品が何点も出品されていた。
中でも、小田野直武と同じ素材を扱った「不忍之池」の江漢の作品は、着色銅版画の技法によって、秋田蘭画的構図を超えた展望図を、西欧的な新しさを否応なく見せて、展示されており、「異国工場図」では、横長の画面に、陶器類を売る店内の光景を近景とし、店外窓外に臨まれる工場の建物を遠景として、彩画が構成され、まさしく新時代の秋田蘭画と言える作品になっていた。しかも、衝立の表裏を飾っていた「江ノ島稚児淵(ちごがふち)眺望」と「金沢能見堂(のうけんどう)眺望」の二点では、海を臨んで遠景にまで及んだ光景に、秋田蘭画のスタイルの名残を見事留めていて、秋田蘭画が日本美術の歴史の一端を飾ったことを黙して伝えていた。
私は漸くホッと救われ、コーヒーで一服したくなる。
(二〇一六、一二、八)
注1
私の観た応挙の展覧会では、一九九四(平成六)年一月、兵庫県立歴史博物館で開催された『没後二〇〇年記念 円山応挙展』が、画家としての応挙の時代的先進性、作品の幅の広さ、表現の豊かさの紹介において、極めて充実した内容だったと、堪能しており、今回も、この堪能に水がさされるようなことはなかった。