承前
暗い会場から、解き放たれて外に出れば、もう一時を過ぎていた。再び美術館にいたタクシーを用いて、草薙駅に戻ると、待つほどもなく来た電車で静岡に帰る。昼食を済まさなくっちゃ。私は、駅舎一階のレストラン街に、清潔そうで明るい蕎麦屋を見つけて入る。もう二時で、客は私一人。天ざるを注文して食すも、肝心の天麩羅が不味く、期待を裏切って気分が萎える。
早々、南出口から駅前広場に出、向かい側の葵ビルへと向かう。ビルのエスカレーターで三階に上がれば、市美術館の入館フロアに出る。敬老手帳のご利益は、ここでは二百円引きと優しい。
入館と同時に、今度は、作品の展示が、日常的明るさの中で行われており、先行きの不安などさらに無く、凡そ屈託から解放されて作品を見てゆくことができそうだった。
小林清親と言えば、私には、御維新以後急速に近代化が進んだ明治の東京の刻々の変化の様を、多数の版画に残した画家として記憶されているが、今年は、彼の「没後100年」に当たるらしく、それを機に、彼の画業を「文明開化の光と影をみつめて」と括って、改めて再評価させようと企図した展覧会になっていたのである。
従って、作品の殆どは浮世絵版画の大きさに等しく、手にとって間近に楽しむことのできる小さなサイズの作品ばかりを見ることになった。当然のことながら、鑑賞上、作品と眼との距離は狭まり、周囲の空間的広がりから己を遮断して、狭い視野の中に、既に失われたしまっている百年以上昔の「文明開花」の一景ずつを封じ込めて見ていくことになる。清親の版画は、西南戦争の起こる前、明治九年からのようだが、彼の造る新時代の風景版画は「光線画」と呼ばれたらしく、その光線画版画が、対象の素材ごとに纏めて並べられていた。
その素材は、対限ごとに「BRIDGE―橋」、「CITYー街」、「NIGHTI夜」、「WATERI水」、「SKYー空」、「FIREI火事」、「ANIMALSI動植物」、「FAMOUS PLACESI名所」、「GENRE&HISTORY―風俗・物語」と、英語と漢字で書かれた九項に分けられていて、各項ごとに、それぞれ数点ずつの作品が展示されていた。その項目は、どんどん新しくなる洋風化を示唆する横文字的世界を、旧来の伝統的な版画によって表現することを暗示する漢字と組み合わせて、仕立てているのだ。
その「橋」では、まず「海運橋(第一銀行雪中)」(明治九年)に印象が残る。それは、何の特徴もない石橋の奥に、聳える四層の和洋折衷の楼閣が新しい時代を表徴して、曇天の下の雪景色中に冴えて建っている作品だが、空に舞う鳥の形もさることながら、橋の手前に立つ、和傘を差した女性の後ろ姿の赤い帯の色気が、見事作品を締めている。
和傘には「V」と「銀座」と「岸田」の文字が、まさに和洋混在で見えるが、明治の初めの頃の銀座の岸田と言えば、あの「麗子像」の画家岸田劉生出自の目薬屋を指すことは、自分にも分かり、そんなことも絵を面白くする。
それにこの頃には、「元柳橋両国遠景」(明治十二年)の作もあり、それは、「日和下駄」(一九一五《大正四》年刊) で、永井荷風が「今は河の様二も變り小流も埋め立てられてしまったので、元柳橋の跡も尋ねにくい」と嘆じてい作品だが、その此岸の柳の巨木の下、島田崩しの女の立つ水辺の彼方、朝靄の中に、旧い両国橋の姿が、消え行く時代を象徴するかのように霞んでいて、いかにも荷風の好みらしい。
次の「街」では、「東京銀座街日報社」(明治九年)と「駿河町雪」(明治十二年)の二点に引かれた。前者には、二階建ての洋風の家並みが続く銀座の通りが描かれ、歩道には花の咲く並木が立ち、古い形振りの男の引く人力車が走っており、後者には、駿河町の四つ角の、軒黒の屋根重々しく大きな三越の暖簾が靡く大店が左手に描かれ、その右手・奥に、新時代の到来を屋上に立てた鯱に仰ぎ望む白い三層の洋風建物が、白い雪景色の中に描かれている。その洋風建築が三井バンクというわけだ。
続く「夜」では、「両国花火之図」と「日本橋夜」の二点。作品の前者は、目の前に屋形船が多く浮かぶ隅田川の水面を視点に、花火を高く仰ぎ見る描き方をしていて、広重たちが描いた花火の景を俯瞰して捉える視点から全く脱却しており、後者の橋は、反りのない全く水平な橋上が、馬車や人力の往来する真ん中の広い車道と、その両者の多くの人波の影で満たされた歩道の賑わいの中、橋のガス灯、車や人々の手元の提灯、対岸の家々の窓の灯りが照らし出す夜景として描かれており、もはやお江戸日本橋の人出に賑わう太鼓橋の江戸版画の時空を完全に革新していた。
しかし次の「水」では、気に入る作品はなく、「隅田川小春凪」に夕凪の広い川面の美はあってもその風景には時代の新しさはなく、「隅田川中洲水雷火」に「水雷」を爆発させての花火並の遊びに、時代の新しさはあったにしても、それが白昼のイベントであるだけに風情を欠いており、描かれた騒ぎの賑わいも疎く、新しさが齎す負の一例のように見えた。
続く「空」では、「神田川夕景」が、光線画の版画が雲の靡く夕空の表現に効力を持つことを知らせていたが、それに似た空の効果を発揮している作品に、「旧本丸雪崩れ」(明治十二年)があった。「旧本丸」として描かれているのは、皇居となって今に残る江戸城の富士見櫓であり、その三層の櫓の石垣塀を背に行進してくる騎馬兵の隊列こそ、前進する新しい時代の足踏みというわけだ。
ところが、この「空」の項には、不思議なことに、激しく降りしきる雨中の光景を描いた「梅若神社」の一点があって目を引いた。この神社が謡曲「隅田川」ゆかりの、梅若丸を祀ったものだとは想像がゆく。元は木母寺と呼ばれていた筈だから、その寺が、明治に改元されて神仏分離令が発せられて廃仏毀釈運動が起こり、その煽りを食って神社に改められた、そういう新時代の到来を、この絵も語っていたのだ。
しかしこの版画の凄いところは表現方法の見事さだ。斜めに降りしきる雨を、背景の空の部分では薄墨の線によって、木立や建物の色版の部分では白抜きの線によって描き、刷り重ねた時、その線の太さも位置のずれや重なりも全く見られず、しかもその一方で色の織り成す景色の表現に当たった輪郭線が一切用いられていないのだった。私には雨足や冷たさが身に聞こえそうな傑作に見えた。
そして「火事」の項が来る。何しろ「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほどだから、その火事が、新時代明治になってどうなったのか、これも清親の関心を引く画題だったのはよく分かる。「両国大火浅草橋」(明治十四年)では、全く同一の図版に火力火災の全く異なる二点が印刷出展されており、同じ火事の鎮火後の「両国焼跡」の作品もあって、前者の画像の中央には燃え盛る火中の三層の洋風の塔、後者の焼け跡には立ち残る二層のビルが、火事にも崩れず残り、建物の新時代の強さを伝えていた。それにしても火災の版画における美を味わうことは充分にできる。
そのあと、「動植物」「名所」「風俗・物語」の光線画が並んだが、そこからこちらの目を引くものはなかった。しかし、この光線画の版画の後には、「風刺画・戦争画」と括られた作品群が並び、その風刺画としては、風刺漫画雑誌「団団珍聞」(注1)(明治十八年~明治二十二年)に発表した清親のポンチ絵作品が何点か展示されていたが、最も著名な「眼を廻す機械」(大量の書類を前に奮闘する小役人の、飛び出さんばかりの眼を左右から機械で回しているという、 役人の機械然とした仕事ぶりを皮肉った奇抜な石版画)を初めとする殆どは、見たことのある作品で、親しみを持つことができた。と同時に、戦争画では、堅大判三枚続きの錦絵四点があり、「我艦隊黄海二於清艦ヲ撃チ沈ル之図」「我野戦砲丸兵九連隊幕営攻撃」「朝鮮豊島海戦之図」「威海衛進軍配置之図」の、どれも日清戦争を題材にした大作だった。とりわけ。泡をあげて沈みゆく敵艦の水中の姿を中心に据えた海戦の構図や、雨の降る暗中、騎馬隊長の見はるかす敵の幕営に、暗がりの中で砲撃を加える兵士たちの闇の姿等、手許に置いて眺める横に長い図柄だけに、版画なればこそのドラマティックで詩的な情調が創出された作品になっていた。しかし、こういう戦争を詩的に捕らえる眼差しが許されるような錦絵版画の通用する時代は、写真の出現と共に、ニュースを版画に頼る必要がなくなることを想定すれば、終焉することを語っているのでもあるように見え―、作品の静寂感が、悲哀を訴えているように見え、自分の感傷癖にうろたえる。
この感傷的な気分から、最後の「肉筆画・スケッチ」の作品群の展示が、私を解き放ってくれ、私を現在現実の時間に戻してくれることになった。
肉筆画の最初の作品は、一六〇に一八〇センチ位の「獅子図」という、明治一七年、清親三十七歳の時に描かれた二曲一隻の屏風絵で、左隻の雌雄二頭のライオンが右隻の雲上の旭日の方を見遣っているものだったが、日本画でありながら、背景の空の景まで含めて隅々まで彩色された油絵的手法が採られていた。その後には、描かれた年も不明の軸ものが多く続き、これらはどれも筆捌きも気楽に、日本画的な画面の余白を親しみ安く残して描かれていた。そしてその親しみ安さは、描く素材によって大いに精彩を放たっていたが、素材とは、「七福神」、「恵比須と大黒の万歳踊り」、「福禄寿」、「達磨と遊女」、「左甚五郎」といったもので、晴れやかな幸福感を売りにしているものだった。中でも「達磨と遊女」では、遊女が白い法衣に身を包んで結跏趺坐し、その後に坊主頭の髭面の達磨が抜衣紋宜しく着物を纏い、下着の赤をちらつかせながら胸高に帯を締めて立っているおかしさを描き、「左甚五郎」では、名工の彫りに命の宿った彫像の男の上半身が、大きく伸びをしたために当の甚五郎が仰天してのけ反る姿の滑稽を表している。そこには、見る者の笑いを誘う清親の遊び心が見え、それがこちらを軽くしてくれたというわけだ。
なお、水彩画は旅先でのスケッチに彩色を施したようなもので、明治の洋画家たちの水彩スケッチ画と、大して違わない。その意味では、清親は版画家として仕事を残したから名も残ることになったので、洋画という技術が旧くなる中で、そのテーマである新しい時代の発言の移ろいやすさを、消え行く木版画に止めようとしたからこそ、次に現れてくる吉田博の近代絵画としての木版画とは異なる、近代美術の中での価値を揺るがないものにしたのだと言えよう。
いずれにせよ、清親は日清戦争の明治二七・八年までの画家であり、白馬会などの近代洋画の運動が活発になる明治三〇年以後の新しい画家たちには組み込まれない、一時代前の、旧と新との狭間の中で新を追った画家を生きたことになる。
私は、割合いい気分で会場を後にすることができた。
(二〇一五、三、二五)
注1
『団団珍聞』は、一八七七(明治一〇)年三月、野村太夫を中心にして、団団社(のち珍聞館)から発行された、週刊の滑稽風刺雑誌で、藩閥政権を批判し、自由民権運動の思想的啓蒙に力を注ぎ、発行停止処分を受けることも再三あったが、「まるちん」と愛称されて世評高く、一九〇七(明治四〇)年七月まで続いた。執筆者は、鶯亭金鶯、鶯亭金升、山田美妙、福地桜痴らだが、幸徳秋水もしばしば文章を寄せている。同誌に、小林清親は、一八八二(明治一五)年八月から、時局風刺画の掲載を始め、風刺漫画家としての評価を高め、『団団珍聞』におけるその活躍は、清親四十六歳の一八九三(明治二六)年七月まで続いた。