川柳 緑
646

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

送別する 世界を愛した画家夫婦を

 会場へ着いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出てゐる。丹青會と云ふ字も、字の周圍についてゐる圖案も、三四郎の眼には悉く新しい。寧ろ一種異磔の感がある。中は猶更である。三四郎の眼には唯油繪と水彩畫の區別が判然と映ずる位のものに過ぎない。

 それでも好惡(かうを)はある。買ってもいいと思ふのもある。然し巧拙は全く分らない。従つて鑑別力のないものと、初手(しょて)から諦らめた三四郎は、一向口を開かない。(中略)

 長い間外國を旅行して歩いた兄妹の畫が澤山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所に並べて掛けてある。美禰子は其一枚の前に留まった。

 「ヱ゛ニスでせう」

 是は三四郎にも解った。何だかヱ゛ニスらしい。畫舫(ゴンドラ)にでも乗って見たい心持がする。三四郎は高等學校に居る時分畫舫(ゴンドラ)といふ字を覚えた。(中略)畫舫(ゴンドラ)といふと、女と一所に乗らなければ濟まない樣な氣がする。默つて蒼い水と、水の左右の高い家と、倒さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とを眺めてみた。すると、

 「兄(あに)さんの方が餘程 旨い樣ですね」と美禰子が云つた。

三四郎には意味が通じなかった。

 「兄(あに)さんとは・・・」

 「誰の?」

美禰子は不思議さうな顔をして、三四郎を見た。

 「だつて、彼方(あっち)の方が妹さんので、此方(こっち)の方が兄(あに)さんのぢやありませんか」

三四郎は一歩退いて、今通って来た路の片側を振返って見た。同じ樣に外國の景色を描いたものが幾點となく掛つてゐる。

 「違ふんですか」

 「一人と思つて入らしつたの」

 「えゝ」と云つて、呆やりしてるる。やがて二人が顔を見合した。さうして一度に笑ひ出した。

 

 漱石の『三四郎』の一節であることは言うまでもない。『三四郎』は、明治四十一年九月から朝日新聞に連載された小説だが、ここに取り上げられている「兄妹(注1)の繪」が、当時の画壇の現実からすれば、吉田博と吉田ふじをの二人の繪を指していることは、一昨年芸大美術館で観た『夏目漱石の美術世界』での紹介記憶からしても、想像に難くないことである。

 引用文中で、三四郎と美補子がこの時訪れた「丹青會」展覧会こそは、『三四郎』が連載される直前の明治四十一年五月から、上野で開かれた第六回の「太平洋画会展」のことであると分かる。渡欧中の二百点を越す吉田兄妹の作品が、その時出展されたようで、そのことは、柴田宵曲が『漱石覚え書』の中で証してもいる。その吉田博と吉田ふじをの展覧会を観る機会が訪れたのである。

 私には、ふじをの絵を緩めて見るのは初めてでもあり、今日、忘却の彼方へ消えかねなくなっている二人のことを思うと、是が非でも観ておかねばと思い、三月五日、『吉田博・吉田ふじを展―世界を旅した夫婦画家(注1)』を観に出掛けたのである。

 出掛けた先は、一宮からバスで二〇分ほどの、訪ねる度に、不便を感じる三岸節子美術館だった。

 この美術館で行われる特別展の会場は、決まって二階である。

 その二階で二人の作品展示は、年代順に、ということは、先に画家として名をなした、ふじをより十一歳年長の吉田博の作品から始まった。画家としての力量が認められる基盤となった水彩画から始まり、一八九四(明治二七)年から一九〇三(明治三六)年まで、博十八歳から二十七歳までの、風景画九点が、まず並んでいた。

 水彩画である以上、三○×五〇センチ位のものが多く、大きくてもその倍位までである。

 その博の水彩画は、全て風景画で、中で建造物の風景を描いたものは、「日光」と「霧の農家」の二点だけだった。

 「日光」の方は、横一メートルはある大作だったが、絵の真ん中に奥へ細まる参道を配し、右手に中景として鐘楼を置き、左手に東照宮の塀から山門、山門からその先の塀へと流れる建物と、塀の前に奥へと並ぶ灯籠を配して、遠近法による距離感を作りあげると同時に、塀の彫り物や灯籠の屋根を、随分細かに丹精込めた描写をしながら、その緻密描写が近景や中景の屋根などでは弱められていて、明らかに見る者の視線の焦点化が計られていることがよく分かる。

 さらには、背景をなす遠景の樹木の緑を、水彩らしい滲みを生かした筆の濃淡によって、木々の遠近や枝葉の籠もり具合が分かるまで描き、作品を豊かな空気感で覆ったところに、水彩画家博の優れた手腕が実感できた。

 一方「霧の農家」の方は、近景の沼、中景の農家、遠景の木立が、暗緑色の濃淡によって描き分けられ、背景の空と沼の水面とは、夜明けの黄色で描かれ、殆ど水墨画に近いモノトーンだが、それが水彩であることによって、近代的な風情さえ生み出していると言えた。ここでも霧の中の木立と沼に映る木立の、木々の繊細な描写に、博の技量の深さが伺えた。

 博の木々への関心の深さは、その作品「冬木立」「野中の老樹」「雲井桜」といった題名からも充分知ることができる。中でも、夕日を背にしたの中の「雲井桜」の美しさは、格別で、私は、もう四十年も昔、吉田博の生誕百年を記念した『吉田博版画展』(注2)で見た、版画「雲井桜」を思い出したが、記憶の版画より、今目の前の、靄のタベの桜花の方が、春らしい潤いをよく表しているように見えた。いずれにしろ、博の水彩画は、その筆刷けによって、時間と言うものの風景化を表現するに長けたもののように思われた。

 それに続いて、ふじをの作品が、デッサン二点を含め七点並んだ。五点が博同様水彩画だったが、巨木の並木を左から右へと描いて遠近法を生かした作品は、その巨木の下、左から奥へと並ぶ農家の軒に国旗が点々と立った「旗日の府中」の、その構図、配色が極めて博的にできており、一九〇二年ふじを十五歳の時の「拝島の大日堂」と、一九〇七年二十歳の作「奈良」を見ると、その社寺の描き方も木々の描き方も「奈良」の方が、着彩が周囲と馴染んで写実が落ち着いてきており、博の描き方が、よく真似られていることが分かる。

ただ、点景として描かれた「奈良」の牡鹿や、「庭の女」という作品で描かれた女の位置や姿を見ると、絵を損なう羽目になっていて、博からは遠い幼稚さを感じさせてもいた。

 その後、「アメリカそしてヨーロッパへ」と括った、海外での作品が並んだ。しかしそこに出展されていたのは、博の、外景を描いた油彩の小品二点と、その玄関前から見たホテルの姿を描いた水彩二点の四点と、ふじをのさまざまな素材を扱った水彩画八点があるだけで、些かその数の少なさが、私の期待を裏切った。ただ、博の油彩画「チューリンガムの黄昏」は、家の灯火が一つ、草原の奥の大樹の下にほの見える、黄昏の広やかな風景描写が詩的だった。

 それに対して、ふじをの作品は、どれも水彩画らしい淡彩的筆捌きからは遠く、油絵の濃密な彩色法に倣った油絵的出来になっており、油彩中心の洋画の世界に馴染んだ結果であることが、読み取れた。渡米した時、ふじをはまだ十七・八だったはずだ。

 その油彩的小品の中に、「ウォリック城」「パリシャンゼリゼ」「ベニス」「アルハンブラ(獅子の庭)」という観光地を描いた作品があったが、中では、やはり『三四郎』に登場した「ヱ゛ニス」の、細い運河とその両側に建つ建物、その運河に架かる小さいが、それらを映す運河の水の揺らめきの中に描かれた作品が、一番目に留まる。橋の袂の岸には、「畫舫」も黒衣の漕ぎ手と共に描かれていた。

 しかし、ベニスの絵はこれ一点で、博のベニスの絵はない。だから、博のベニスの絵とふじをのとを見分けることは適わないが、少なくとも『夏目漱石の美術世界』に出ていた、博とふじをのベニスの絵によれば、二人の絵を区別することなく見てしまうことは充分ありうることに思われた(注3)。

 ともあれ、ふじをの作品で、「ベニス」は他の作品に比べ充分鑑賞に足る作品だった。

 しかし、私には、次に現れた博の海外での油絵四点が面白かった。

 二点は一九二四(大正一三)年、渡米した時の「グランドキャニオン」と「ヨセミテ公園」であり、広大な自然、それも山岳の風景を扱うという、新たな関心への取り組みが見えた。もう二点は、それから五年後のインド写生旅行の際に描かれた「プワテプールシクリ(王宮)」と「ラクノーのモスク」だったが、和洋のいずれとも異なる独特の異文化に寄せる感興の深さが、私には痛いほど感じられて、その時の感興の働きに共鳴した。とりわけ、黄金の縁取りと尖塔とで飾られた白いモスクが、その脇の池面に映るモスクの姿と共に描かれた一点は、解き放たれた大気の広やかさを感じさせて、これまでの作品群の中で最も新鮮なイメージを造出していた。

 そして、この新鮮さが、山岳地帯での大気豊かな世界の油彩画六点に展開して、博にとって、そういう自然の風景世界の表現が、博自身にとっての大きな課題になっていたことを語っており、それによって彼の作品の展示が締め括られていた。

 岩と豊かな水の流れだけを描いた、文展に出した二〇代の作品「渓流」、雲を負い雪消の尾根を連ねて立つ「穂高山」という三十代半ばの大作、同じ時期に描かれた「槍ヶ岳」と「高山植物」、五十代になって描いた、北アルプスの山並みを映して、大河然と流れる「糸魚川」の大作、六十代に入って描いた、白い雲海の果て、今まさに出でようとする朝日の天空の景「三千米」が、博の無事悠々の生を伝えようとしていた。

 そして、この後会場は、ふじをの世界に移る。その絵は、和服姿の老爺の座像と着物姿の女の子の座像の二点以外、全て静物画によって占められていた。作品は一九〇七年ふじを二十歳の時のものからのようで、見ていくと作画年次不祥のものが多い。見れば、人形や果物や壷やといったものを扱った静物画より、鉢の花や花瓶の花を飾る事なく描いた静物画の方が、素直な感じでいいのだが、作品というものが、ふじをの主調や意図というものを何も感じさせない、卑近な日常の断片に過ぎない、絵かきとしての個性を欠落したものだった。それは、絵が好きで、熱心に描いている、家庭婦人の穏やかさが伺われる作品群だった。

 こうして、二人の作品を並び終えた後に、最後に、博とふじをのそれぞれの最終展示へと移る。それは、博にとっての版画活動と、ふじをにとっての第二次大戦後に取り組んだ抽象画への挑戦だった。

 博の版画については、どれも、昔見たもので、久しぶりではあっても新鮮さに欠ける。それに対して、ふじをの戦後の挑戦は、師に近い立場にあった博の没した一九五〇年以後、まるで博の縛りから解き放たれたように始まっていた。

 作品は水彩で、花心に発して花びらの伸びやかに広がる色合いを、緩急ある曲線の構成で纏め上げた作品群だった。花の心から周囲へと走る花の色の曲線的グラデーションが、若々しいエネルギーさえ感じさせていた。しかもその花の抽象画を、ふじをは版画でも表現し、違和感のない成果を見せていたのである。

 それまでのふじをの静物画の花々を、七十になって、日常から自分独自の世界に紡ぎ直すことに、ふじをが見事成功したのだ。どれも小さな作品だったが、ふじをの命の瑞々しさを充分感取でき、これによって「世界を旅した夫婦画家」の作品鑑賞が終了したことに、ホッとしていた。

 私は展覧会場を出て、一階に戻り、フロアのソファに腰を下ろした。その時、改めて石川啄木のことが気になってきた。三四郎と美禰子(つまり漱石)が観た展覧会を、啄木も観ていたような気がしてきたのである。

 しかし、この美術館へ来た以上、三岸節子の作品展示会場を観なければなるまいと、一階の三岸節子作品の展示会場を通り見して、嫌いではない節子への義理を果たし、それから喫茶室へ行って、声もなくぼんやりとコーヒーを啜った。

 帰宅すると、早速私は、啄木の日記を紐解く。

 あった。「明治四十一年日誌の其の二」中、六月七日の記事だ。そこにこうあった。

 二時から金田一君(注2)と二人、大學構内の池を見て、上野の太平洋畫會を見た。吉田博氏の作に好いのがある。月夜のスフインクス、それから荒廢した堂の中に月光が盗入って一人の女が香を焚いて祈祷をしてる圖など。

とあり、六月十五日のところには、

金を欲しい日であった。

此間太平洋畫會で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)、などを買ひたい。本も買ひたい。電話附の家にも住んでみたい。

と、書いてある。

三四郎は、「巧拙は全く分からな」くても、「好惡はあ」って、「買ってもいゝと思ふのもあ」ったが、啄木もそんな三四郎に近かったのだろうか。いずれにしろ、吉田博の作品が、明治四十一年当時、三四郎―――つまりは漱石―――や啄木の好奇心を引くだけの力を持っていたことは確かだ。その画家が、しかし、今日、近現代の画家として、噂に上ることは殆ど無くなってしまっているのだ。

 改めて、吉田博の遠く去り行く影に―――吉田ふじをの影は博の影の影となって―――、哀悼の意を捧げなければならなくなる。

 私には、「吉田博・吉田ふじを夫婦法要展」になった。嗚呼.....。

 

(二〇一五、三、一二)

 

注1

 吉田博とふじをは、もともと血の繋がった兄妹ではなく、博は、福岡県甘木市の小学校の校長にまでなった、久留米の上田束の次男で、上田一家が福岡市に移住後、福岡の修猷館中学に進学したところ、同校の図画の教師吉田嘉三郎に画才を認められて吉田家の養子に迎えられ、画家への道をすすむことになったのである。

 その吉田家の三女がふじをだったので、博が吉田家の養子になった時、博は十五歳、ふじをは四歳だったのである。そのふじをは、画家として生きる義兄の博の影響を受け、絵画の道に進み、明治三十六年末から三年余、二人は、アメリカを中心に、ヨーロッパへも足を延ばし、日本の兄妹画家として評判もとり、明治四十年始めに帰国して、その年の四月に結婚をしたのである。博三十一歳、ふじをは二十歳であった。

注2

 『吉田博版画展』は、一九七六(昭和五一)年九月一一日から一〇月二四日まで、平木浮世絵財団の主催により、東京銀座六丁目にあったリッカー美術館で開催された。そのとき出展された博の版画は、生涯に渡る作品二五〇点に及んだ。

注3

 『夏目漱石の美術世界』展では、『三四郎』に関する作品として、ベニスを描いた吉田博の油彩画二点とふじをの水彩画一点の三点が出展されていた。



P /