二月二十日、私は五反田のホテルを九時過ぎに出て、新宿から京王線の特急で府中に向かった。府中市美術館で催されている、『生誕100年 小山田二郎』展を見に行こうとしたからである。
前日、私は、会合のために上京し、午後一時の開会の前にと、上野の東京都美術館へ『光と色のドラマ新印象派展』を観に行っていた。
所謂点描派の画風の成立と推移を、モネに始まり、スーラ、シニャックからマティスまで、百点を越す作品によって辿る展覧会で、ルイ・アテェとかマクシミリアン・リュスといった、耳慣れぬ画家の、相当数の作品にも出会ったが、肩肘の張らぬ気楽さで観て歩きを楽しむことができた、その翌日の今朝である。
府中へは新宿から二十分ほど、駅前から美術館へのバスが出た直後だったので、タクシーに乗った。運転手の女性との会話で、私の朝の気分が一寸和む。
和んだ気分で美術館に入ると、館内は人気少なく、自分の移動する音以外にはまるで閑とした気配だった。小山田二郎との対面は、その深閑の中で始まった。
その名前こそ、何点かのシュールな絵画によって興味を持ってはいたが、日曜美術館の紹介がなければ、触れずじまいで終る画家になったことは間違いない。その作品に触れ、絵を描くだけで生きた一人の男の生涯に触れていくことになる、些細でも緊張する気持ちが、冬の今朝の寒度に相応しく清(すがや)かで快い。
入室すると、まず、「前衛からの出発」の標記と、画家として出発するまでの凡その来歴が記載され、一九四〇年代の作品六点に出会う。一九一四(大正三)年生まれの小山田が、既に二十代半ばを過ぎている作品である。彼は、日本のシュールリアリズム運動のリーダー的先駆、福沢一郎が結成した美術文化協会に作品を出し初めている時期になる。その六点は、全て肖像画で、初めの五点は、どれも絵の具の厚みを感じさせる、写実的な五〇センチ丈の小品で、その内三点は「顔」と題されていたが、最初の一点に仏像の顔が描かれていた他は、幼児、子供の顔で、今二点も「小さき者」と題されて子供の上半身が描かれていた。どの顔も可愛らしさを持たず、バックの暗く重い色の中に、それぞれに癖のある眼差しを浮かべている。子供が、作者にとって可憐では括れない重苦しいものに感取されていることを伺わせる。
そして四〇年代最後の六点目も「娘」と題した半身像だったが、それはそれまでの作品の四倍はあろう、一メートル程の大きさで、作品は、そこで突如シュールになっていた。顔が、ピカソがやったように、正面と横面の二面を一つの顔貌に統べて描き、衣装と首筋や腕を、一々職別を示さず、大まかな線の組み合わせの中に纏めて作画していた。そこには、ピカソの影響を充分見ることができたが、然し、ピカソのように、色と線とを、くっきりシャープに使い分ける明快さはなく、特にその配色が、暗めに濃淡の滲みをもって重ね塗られていたり、輪郭に当たる黒い線が習字の筆捌けのような掠れをもって引かれていて、前の写実的な五点の情調をそのまま引きずっているように見え、そこに、この画家の資質があることは否定できない。
それに続いては、一九五〇年に描かれた、油彩の「月に吠える」と題した作品が登場したが、小山田が萩原朔太郎の詩の世界に溺れていたことは、この絵が、『月に吠える』の序の朔太郎の言葉「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。」を、直ぐ連想させただけでも得心が行く。まさしく小山田の絵は、孤独の深淵から脱出出来ない渦巻く自己そのものの表現になっている。そのことは、「月に吠える」と並んで掛けられていた、「狂女」と題した異様な容貌の女性の半身裸像を見ると、揺るがぬ確信になる。乳房を鋭角的に垂れ下げ、痩肩を怒らせ、鼻梁を歪め鰐口広く眼を剥いてこちらを見ているその醜像は、敢えて言えば、私には、小山田の自画像に見えた。
この後、作品は、「人間に棲む悪魔」というテーマの下で展示されることになったが、そこで、まず驚いたのは、一九五五年からの作品に、鋭角的な線の交錯による独特の作風が現れたことだ。色彩的には黒を主調にしており、それだけでも大きな変化だが、その「コンポジション」「ピエタ」「母」「愛」「昔の聖者」「ハリツケ」と続く作品の主題が、キリスト教的な視点に立って取り組んだ「死」であるところに大きな特徴があった。
そのことは、「コンポジション」の、黒い板の上に、骸骨のように痩せた顎を上に向けて、殆ど板化して横たわり、その足元(右)寄りに、骨の痩せ細った裸身の背をこちらに向けて、マリアというよりは、十字架を下りたキリストを立たせた作画は、私の記憶にあるハンス・ホルバインの「墓の中のキリスト」を背景にしていることを伺わせ、「ピエタ」の、黒衣を纏ったマリアの膝の上に、両腕を垂れその頭蓋骨状顎を上げて、痩身を反らすように抱かれたキリスト像を見ると、その背後にアンゲラン・カルトンだったかの「アヴィニヨンのピエタ」があることを伺わせたことからも、明らかだと思う。
更に、「母」と「愛」は、どちらも一メートルを優に越す大作だったが、手首に長い数珠を巻いた黒い衣の「母」の背後に描かれているのは、積み重ねられた白い髑髏の群れであり、両手を画面一杯に広げて立つ巨大な母なる「愛」という存在の足元に、一杯広がって置かれているのも、これまた髑髏の群れだった。しかも、母だと思われる存在の両手の広げっぷりは、磔にされた十字架上のキリストの手を連想させるのだ。「愛」の象徴こそは母であるはずなのに、その顔は、「狂女」の肖像が整理された描き方で、殆ど怒りと叫びの表情に仕上がっていた。
しかも、それらの作品は、間違いなく、一九四〇年代には評判になっていたベルナール・ビュッフェの、細身で鋭角的な表現スタイルの影響を受けて成立したものだと私には見えた。しかも、そのユニークな筆法によって認められたビュッフェの作品には、キリストの「ピエタ」や「磔刑」を扱ったものが多くあったはずである(注1)。
そしてこの後、ビュッフェの影響を、小山田的に苦悩の表情として顕に仕立て上げた「顔」と言う作品三点が並んだ。どの顔もビュッフェ的に縦に長く細面ではあるが、決してビのュッフェのような治まった線で仕立てられてはおらず、顔の色は白か赤かで塗られ、眼は悲しげか恨めしげかの眼差しでこちらを見据えていた。この悲しさと恨めしさこそは、小山田自身の根に住む心情で、それあるが故に、それを悟ること適わぬが故に、画像の線と色との混沌ぶりが生み出されているのだと見えてくる。
その後、今度は、既に一九五〇年頃描かれた「鳥女」と題する水彩画の小品二点が出ていたが、その「鳥女」と題した作品が、次には油彩画で、それも大きいのは縦一メートル五〇を越すような、五六年から六〇年にかけて描かれた六点が、次々と現れた。
この「鳥女」こそは、否応無く小山田における「人間に棲む悪魔」の表徴だと知らされ、同時に、「鳥女」こそは、「狂女」から「顔」へと小山田が描いてきた自画像の、小山田的な最終到達点だと思われた。
その「鳥女」の初めに出会った一メートルに八〇センチ位の油彩画は、嘴鋭く左を向いて怒りの眼を剥き、人物画の座像宜しく、黒い羽を着衣のように身に練い、膝の上に脚を手のように組み重ねて座した半身像に仕上がっていた。鋭く大きい嘴に表徴される画像全体は、引っ掻くように着彩した線描で鋭さを極めんとし、作品の鋭角性を強調していた。このシャープな描き方によって、膝上の痩せた組み脚が、我慢して耐える力を示しながら、大きな嘴は間違いなく怒りの鳴き声を発していることを、ストレートに伝えてきた。
しかし、この「鳥女」より大きな、大作の「鳥女」が二点あったが、その怒りの眼差しは変わらないものの、一点は、肥満の腹を持ち、二本の腕は、鳥の手ではなく人間の腕・指掌と化して描かれており、今一点では、上の嘴が折れてしまい、組み合わせた指は、その組み様から見て人の指になっていて、どちらも完成度の高さを失っていた。
ところで、この悪魔としての「鳥女」の連作に出会ったとき、私には、直ぐ或るものが頭に浮かんだ。それは、私に強烈な印象を今に残す、十五世紀後半のルネサンス期を生きた特異な二人の画家が残した、「聖アントニウスの誘惑」という作品である。特異な二人とは、ネーデルランドのヒエロニムス・ボスとドイツのマティアス・グリューネヴァルトなのだが、この二人のどちらもが描き残した「聖アントニウスの誘惑」(注2)には鳥の悪魔が描かれており、それが、頭に浮かんだのだ。
その二つの作品に、私は、直接、作品の所蔵場所で出会っており、御蔭で、鮮烈なイメージが私に突き刺さってしまったようだが、ボスの方は、リスボンの国立美術館で、グリューネヴァルトの方は、フランスはコルマールのウンターリンデン美術館で、それぞれ観たのである。
「聖アントニウスの誘惑」のボスの作品は、丈一メートル三、四十、幅は中央が一メートル、左右が五〇センチ位の、三つのパネルからなる大作で、鳥は、左パネルの右下に、円錐状の帽子を被ってその長い嘴に大きな名刺大の紙を咥え、スケートを履いて赤いコートに身を包む姿で描かれていたが、名刺大の紙には、どうやら、「怠け者」と書かれているようだ。それに対して、グリューネヴァルトの方は、中央最大のパネル、縦二メートル三〇、横三メートルはあろう「磔刑図」を中心にして、三重三層、全九作からなる『イーゼンハイム祭壇画』の、最も内層の右隻に描かれた作品で、その作品の中央下部に、白博豊かに驚きの表情で仰臥する聖アントニウスの右側に、嘴鋭く目を剥いて両手で棍棒を振り翳している鳥が頭毛鋭く描かれていたはずだ。ボスの鳥には、不気味さはあっても、どこか解脱のユーモアが感じられ、それに対し、グリューネヴァルトの鳥は、その不気味さの非情・冷徹振りが精緻に表現されていたはずだが、小山田の鳥に、ボスの解脱の境地は見えず、グリューネヴァルトの恐怖の精微徹底はない。小山田がこの二人の画家が残した鳥を見たら、どんな影響を受けたか、それが知りたくなる。これも、小山田が、現代画家として、グロテスクな異形性を最も個性的に発揮した画家であることを、「鳥女」が証かしていると思うからだ。
ところで、六点の「鳥女」を見ると、初めに紹介した一点が、「鳥女」の基礎になっていることがよく分かり、この一 点を基にしてその他の「鳥女」を見ると、悪魔=「鳥女」の自己意識の下、その悪魔をどう手なずけるかに葛藤する小山田の迷いが伺えもした。
そしてその後、「盲人達」、「亡者達」が列を成して歩む図、「いやなやつ」「さえぎる者」「野人」等の作品が現れたが、それらは、その題名によって、小山田の内に捕えられている鬱屈の重さを伺わせる。しかし、これらの彼の絵は、どれも、暗色ばかりで描かれてはおらず、その図柄のグロテスクぶりからして、印象はまるで違うが、古賀春江の作品の色彩が、クレー的色彩の組み合わせに発した魅力的な混合様式であった、その古賀春江の混合様式を受け継ぎ生かしているように思われた。
古賀春江のことは、かつて本誌で、「絵が語る叙情詩」と題して扱ったが、そこで、古賀の絵が「詩的で童話的な叙情性の濃い色彩と構成を持った作品」で「その作品群には明らかにパウル・クレーの影響が見える」と指摘し、その色彩表現について、「然し、クレーのような乾いた知的澄明さはなく、油彩水彩の別を問わず、湿りを帯びた詩的情調の豊かな、それもどこか微笑ましい温もりを感じさせる作品に仕上がっている」と記したが、これらの言葉は、小山田の作品に、殆どそのまま当てはまるように思われる。ただ、小山田の絵は、古賀に比べて、その叙情性・詩的情調において、より迷妄の闇を、色彩の混沌とした表情に結晶させている。
そして、この迷妄の間の混沌ぶりを示す小山田の特徴がこの後の、四つの「子供」と題した作品や、「少女とみみずく」「花火」といった子供を描いた作品にもよく出ていた。それを見ると、子供という存在の、小山田の生にとっての意味の大きさが分かりもする。何しろ、画面で、青系、赤系のそれぞれ多様な色と濃淡の配色の妙をどんなに楽しもうと、その子供たちの顔立ちの、可憐と無邪気を全く欠いた造りは何とも不穏で、それは、古賀春江の描いた子供には見られないものだったのだ。
言ってみれば、小山田の子供は、不気味な可憐または可憐てな不穏で、それが醸す滑稽ユーモアが、作品に小山田流の詩情を齎している。
しかし、この後、「多磨霊園で生まれた幻想」と主題が変り、一九六〇年代の作品群に入るのだが、小山田は、多磨霊園の近くに自宅とアトリエを造って、画家としての生活を穏やかに過ごし得るようになったらしく、それあってか、作品に新展開は見られず、不気味な混沌は衰えないものの、怒りの鋭さは陰を潜め、ユーモアも画面から薄らいでいた。
そして、そのことを最もよく語っているのが、一九六五年作の「鳥女」だった。嘴は突き出ていても鋭さを欠き、目は二重瞼で睫まで描かれ、黒い眼は赤くなって、真摯な怒りの瞳から恨みの瞳に変っている。しかも、鳥の顔には白く頬髭顎髭が垂れ、体は、黒から赤い羽根衣装に変って、恰も鳥女の還暦を語るかのようだった。
六〇年代の作品は、全体に赤い色を基に暖色系の色が目立ら、黒く暗く重い色調は、弱くなっていたのである。
そうして、一九七〇年以後の、「歯のなかの小宇宙」と括った最後の展示に入ったのだが、この項の中でも、七九年に描かれた、一三〇×一六〇センチはあろう大作の「鳥女」が、まず眼を引いた。
それは、太いの脚で、正面からこちらを向いて立つ鳥女の全身像になっていた。初めに見た「娘」と同じく、横顔と正面顔とをピカソ的に一つに纏め上げ、その二つの眼が、しかとこちらを見ていて、しかし、怒りを示してはおらず、黒い羽が恰もコートを羽織ったかのごとく、裾を広げて描かれている。面白いのは、白い二本の脚の上の懐から、爪の鋭く伸びた手の甲が覗いていて、鳥女というより、鳥親父のイメージを鮮明にしていた。しかも、この鳥親父の頭の後に、横に長く板の重ねが、まるで十字架の横木のように描かれ、画像全体に施された引っ掻き線が、此の絵に空間性を生み、引き締めてもいた。同じ顔の作り方で鳥を描いた、六、七〇センチの「森の雅人」という作品とも併せて、「繭のなかの小宇宙」を自己の実在の場と身を治めた、混濁混沌の生から脱した小山田の最終の自画像が、そこに結晶しているように見えた。
この最後の項の展示の初めに、小山田が、一九七一年春、多磨霊園近くの自宅から、家族を捨て失踪したこと、失除後は居場所を知られぬよう偽名を使って、遠縁の女性と過ごしたことが紹介してあったが、それが、この「鳥女」や「森の雅人」を生むに至ったことになる。
そして、この時期、一九七〇から八〇年代までの作品を見て行くと、それまでの作品に比べて、線の仕切りが明確になり、それだけ暈しによる、つまり対象を曖昧化する描写法が、消えたことになる。対象の混沌が、混沌として明確に認識される、そういう眼が生じたことを、それは告げていた。
こうして展示の最後は、半紙大の水彩画「墓への道」と「顔」の二点で括られていたが、その二点には、どちらも、白いショールで頭を巻いた面をこちらに向けた女性が描かれていた。「墓への道」の方は、女性が、赤い画面を背にした白い十字架の下で見開いた眼から大粒の涙を落として描かれてお
り、「顔」の方は、夜の闇の中、女性は眼をこちらに見据え、その頭上に、同じように眼をこちらに見据え、羽を広げて飛び立たんばかりの鳥を描いていた。
どうやら、この二点の女性こそは、小山田の残した己の最後を写した自画像だということになろう。
こうして見てくると、小山田二郎というシュールリアリズムの現代画家とは、世に言う「自画像」を一点も残さなかった画家であり、と同時に、生涯にわたって「自己画像」を描き続けた画家だと、私には納得できた。混沌の中で振り回されながら、それでも、こうして納得して、出口から明るい外へ帰り出ると、空気が美味い。私のバス停へ向かう足取りも、年に似合わず軽くなっていた。
追記
これは、後で、図録の「略年譜」によって知ったことだが、一九一六(大正五)年、小山田二歳の項に、「顔に赤アザが現れる先天性ウェーバー氏病の手術を行うが、成功に至らなかった」の記事があり、小山田二郎が、生涯、常人の顔面とは異なる赤アザに冒された面貌と向き合って生きねばならなかったことが分かった。
そういえば、展覧会場のどこにも、一度も小山田のポートレートは、掲示されていなかったが、「略年譜」中に、彼の顔が撮られた小さなスナップ写真二点が紹介されていて、どちらも、左顔面を蔭に成るようやや俯き気味に、こちらに眼を向けて写っていた。それでも、こちらに向けた右顎近く、髭刷り後とは違う、異様に黒く写った皮膚が見え、強い容貌コンプレックスを持たねばならなかったことが首肯できた。
(二〇一五、二、二八)
注1
私が、ビュッフェに関心を抱いたのは、人体が鋭角三角形を交錯させての痩身に描かれた、「肉体」という言語感を否定した人体表現の徹底にあった。その画集『ビュッフェ』が、みすず書房から初めて出版されたのは、一九六〇(昭和三五)年頃、自分の二十七・八の頃だったと思うが、その画集を手に取った時の喜びは忘れていない。しかし、その画集はどこに行ったのか、探しても今は見当たらない。但し、私の手元にある、一九八七年一九九五年に催された『ビュッフェ展』の二冊の図録を播くと、二つの大作「十字架降下」と「ピエタ」を確かめることはできる。
注2
聖アントニウスは、三~四世紀の、隠者としての制度「隠修制」を達成したエジプトの聖職者である。若くして両親を失い、ナイル河東の山中の洞窟で孤独観想の修行をしたが、この禁欲生活が、性的な悪魔や攻撃する悪魔からの誘惑妄想の苦痛を齋し、その苦しみが伝記的事実として広く普及したもの、それが「聖アントニウスの誘惑」となったのである。(『岩波西洋人 名辞典』、『岩波キリスト教辞典』等参照)