二〇一五年、今年の展覧会初詣では、一月八日、名古屋ボストン美術館での、『ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展ーー印象派を魅了した日本の美』展の参拝になった。その参詣は、まさに迎春と呼ぶに相応しい至福の一時を私に齎てくれたのである。
一体、この初詣では、展覧会の主要出展作品、印象派の巨匠クロード・モネの著名な大作「ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)」が、まるでこの一点の展覧会であるかのように、大々的に宣伝されてきていて、お蔭で、その一点を拝観するために出掛けたと言ってもいいものだったが、その一点がまさに、拝謁の甲斐十二分の感動を齎してくれたのである。まさしく、あけまして、おめでとう・・・となった。
このモネの大作「ラ・ジャポネーズ」は、出版されている彼の画集や、美術全集のようなものを紐解けば、必ず紙上に見ることができるもので、私もそれによって、日本の文化が、印象派以後の画家たちに及ぼした大きな影響の、最も具体的な証しとして、この作品に馴染みを抱いてきているのだが、実際には、これまで、モネや印象派の展覧会で、相当な数のモネの作品に出会ってきているにも拘わらず、この「ラ・ジャポネーズ」には一度も出会った記憶がないのだった。それが今回、それを始めて目の前にできるというのである。
だから、この展覧会の「ラ・ジャポネーズ」参拝は、同じモネでも、「印象ー日の出」に始まり、見慣れた「ルーアン大聖堂」や「積み藁」や「睡蓮の池」といった油彩画を見るのとは、こちらの気構えが違っていたのである。
したがって、この展覧会の鑑賞は、御本尊の「ラ・ジャポネーズ」如来に向かって、その数々の脇侍の前を、祈りを捧げて辿って行くといった按配で行われることになった。
展覧会は、全体を五つのテーマに分けて、作品展示がなされていたが、「日本趣味」に始まり、「女性」のパートへと進む、その「女性」の作品中に、御本尊は鎮座していたのである。
その点では、御本尊に至り参拝するまでの時間は、心が焦れてくるほどの長さにはならず、辿る参拝者の心を読んだかのように、参道のほどよい位置に御本尊は祀られていた。
しかも、本尊までの脇侍仏たちが、「ジャポニズム」という主題に溶け込みやすい作品たちで、拝観を有り難く過ごすことができるように展示が仕組まれていた。
参詣のまず冒頭、「日本趣味」の脇侍としては、最もポピュラーな広重と北斎の浮世絵の紹介から始まる。
北斎は、「冨嶽三十六景」の「武州千住」の一点と『冨嶽百景』の初編と二編の二冊、広重は、「東海道五十三次」の「三島の朝霧」に、「名所江戸百景」の、どちらもゴッホの油彩画の模写作品が残る「あたけの大橋の夕立」「亀戸の梅屋敷」の二点と、室内から見た景色を描いた「江戸名所百景」の二点が、まさにボストン美術館におけるジャポニズムの証しとして首肯出来る展示になっている。
その後、蒔絵を施した料紙箱や、七宝焼を施した何点かの刀の鍔が並び、それら日本の製品の影響の成果としての、歌川国貞の浮世絵人物像を写した一対の皿、富士の月を中心にそれを取り巻く雲と草花を文様にして織り上げた帯状の布が紹介されていたが、中で、三十センチ程の四角い台に二十センチ程の高さに積み重ねられたインクスタンドと名付けられた陶磁器には、参詣の眼(まなこ)が飛びださんばかりになった。
それは、亀を四脚に仕立てた、長方形の草木や鳥の図で彩られた台の上、その両端の吹き取り紙器の上に、それぞれ銀と金でメッキを施した狛犬を置き、それと隣合って、富士山や扇や蝶や格子縞等の模様で彩られた、入れ子構造で三重に作られた一対の椀風のインキ壷を配し、その蓋にはそれぞれ天道虫大の昆虫が付けられていて、その三つ重ねになった二つのインキ壷の間の中央に、四角い花瓶のようなペン立てが、すっくと立っていて、そのペン立てには浮世絵風の女性が彩られていたのである。
こんなインクスタンドがあろうとは。これは、どうやらパリのブシュロン社の製作になるようで、デザインはポール・ルグランとなっていたが、私にはまるで見当もつかない名前だ。
このひそかなびっくりの後、日本の光景を描いた外人の作品二点が、「日本趣味」の項を締め括っていた。
一点は、ヘンリー・ロデリック・ニューマンの「日光東照宮外壁」という、その石灯籠や、木彫り彩色の美しく精緻な東照宮の壁面が、まさにそうだと直ぐ納得出来る、まるでカラー写真のように精妙な写実で描かれた、縦四十センチほどの水彩画で、今一点は、広重の、近景の鯉幟、遠景の富士を描いた「名所江戸百景」の「水道橋駿河台」と並置して掲げられた、ルイ・デュムーランの、曇り空の手前、風で高く横に靡く鯉幟と、その暗い空の下、道の両側に遠くへと広がる屋根瓦の黒っぽい日本の家屋を描いた「京都の鯉のぼり、端午の節句」という五十センチほどの油彩画だったが、私には皆目無知の二人の外人の、日本的な情調へ寄せる興味の眼差しが、鮮明に感取できる、そういう絵だった。
こうして、「女性」の項に移ったわけだが、当然の事ながら、浮世絵の女性像の紹介から始まる。そこにあったのは、宮川長春の「遊女と禿」と渓斎英泉の「鯉の滝登り打掛けの花魁」の、花魁それぞれの立ち姿像二点と、鳥橋斎栄里の「近江八景 石山秋月(丁子屋内 雛鶴)」と菊川英山の同じく「風流近江八景 石山」の、まさに石山詣での紫式部の役よろしく、文机の前に座して思案げな風情を示す遊女と芸妓の像二点の四点だった。
それに続いて、油彩画の若い女性像三点が展示されていたが、その内の二点は、若い女性の座像画で、どちらも椅子に掛け、傍らの机上に肘を立て、常に顔を預けた姿態の優しさが、よく描けた作品で、その娘のどちらもが何かもの思わしげなところに、先掲の、浮世絵の紫式部嬢の表情が、影を牽いていると見えなくもない。二点の絵は、どちらも私の知らない画家、アルフレッド・ステヴァンスの「瞑想」とエドマンド・チャールズ・ターベルの「夢想」と題されていたところも面白い。
それにしても、これまでの、器具のデザイナーにしろ、風景画や女性像の画家にしろ、まるでそれと知らない作家ばかりだったが、ジャポニズムの運動は、そういう名もない人達によって、幅広く行きわたっていたことが語られていたのだ。つまりそれほど、ジャポニズムは時代の一つの大きな美術的潮流であったことになる。
こうした油彩画の後、浮世絵の版画に対応させる意味があってのことであろう、女性を扱ったエッチングやリトグラフの版画が、数点展示されており、中には、ロートレックやモーリス・ドニの作品もあったが、ジャポニズムを理解するに相応しい作品のようには思われず、どれも美的な鑑賞に足るほどのものではなかった。
こうして気分が萎えて来たところで、新しい部屋へと移ると、そこにモネの「ラ・ジャポネーズ」の一点がその壁面一つを独占して堂々現れたのである。
その壁面は赤く設(しつら)えられ、床より五〇センチ程の高さの赤い台を下にして、凡そ縦二、五メートル横一、五メートルの「ラ・ジャポネーズ」は懸かり、その大きな画面が、壁から殆どこちらの頭上へ覆い被さってくるように錯覚された。
仰天!目をぱちくり・・・である。
見直せば、覆い被さってくるかに見えたのは、リアルに描かれた着物姿のモネの妻、カミーユ・モネの実在感が、モデルの生身の重さそのものを感じさせる錯覚を生んだからだと分かり、これを描いたクロード・モネの写実の力量の、ままならぬ凄さに奪帽せざるを得ないことになった。
そしてその凄腕は、描かれたモデルの頭部や腕の肉体部分の表現にあったというよりは、モデルが身に纏っている、花魁の羽織るような、足元に長く末広に広がった、裾長で綿入れ豊かな打ち掛けの描写ぶりにあったのだと思われてくる。
打ち掛けの、赤地に白、黒、緑、青による刺繍と、金・銀の縫箔の織り成す文様の、その絹地の重みさえ感取できる、艶ある質感表現の見事な写実ぶりが、圧倒的な迫力をもって、今眼前に立ちはだかっているのだ。とりわけ腰から下に織り込まれた、大きな眼を剥(む)いて、今まさに太刀を抜かんと身構えた髭と眉の黒く濃い立ち姿の武者の迫力が、作品の重心を下げて、絵に安定感を齎しているところが憎い。
その打ち掛けを羽織ったモデル、モネの妻は、金髪の顔を反らしてこちらに笑まい、右腕を挙げて手にした扇を開き翳しているのだが、その立ち姿が、先程展示されていた、渓斎英泉の「鯉の滝登り打掛けの花魁」の立ち姿の影響を受けていることは明らかに見て取れる。そう言えば、ゴッホが描いた「タンギー爺さん」の背景にも、同じ英泉の、これと同じポーズで描かれた「雲龍打掛けの花魁」が写されていて、それは夙に周知のことで、今それが思い出されもしたのだが、いずれにせよ、英泉の花魁の立ち姿を、晩年ジベルニーに日本庭園を作り上げ、その屋敷の壁を一杯浮世絵で飾るほどのジャポニストだったモネならば、充分この作品に生かした筈である。その生かされ方が、私には半端ではないものに見える。
そして、見直した結果、絵が覆い被さってくる感じからこちらを救っているのが、茣蓙の床から緑掛かった青い背後の壁の上へと、跳ね上がるようにして描かれた、十四、五点の様々な絵柄の団扇にあったことを知る。団扇はジャポニズムの証しとして働いていただけはなかったのだ。改めてモネのお洒落な作画的才覚に敬服することにもなった。
この絵は、今回の出展の直前まで、一年以上に亙って保存修復作業が行われてきたという喧伝もあり、それが、今回の驚嘆を生じるほどに、この絵の色艶を描きたての新鮮さに復元してみせたわけで、ここでまた改めて修復能力の高さに脱帽する。
さすがに、あからさまな合掌こそしなかったが、この御本尊、モネの「ラ・ジャポネーズ」に充分堪能して参拝を終えた結果、その後の展示の道は、最早帰りの参道と化し、その参道の作品に目の神経が働くことは、殆どなくなっていた。
だから、以下は、帰り参道で目にしたものの、ごく大雑把な記載に止まる。
そこには、歌麿の「母子図 たらい遊び」に対して、その影響を受けたメアリー・カサットの子供の「湯浴み」を描いた作品の一対や、浮世絵の人物像の背景表現の影響が窺える、ゴッホのアルルの郵便配達夫の妻「オーギュスティーヌ・ルーラン夫人」像に、エミール・ベルナールの「画家の祖母」像の肖像画二点や、広重の「東海道五拾三次」の「岡崎矢矧之橋」に対する、先にも紹介したホイッスラーのエッチング「オールド・バターシー・ブリッジ」の一対や、同じく広重の「名所江戸百景」の「愛宕下薮小路」に対するカミーユ・ピサロの「雪に映える朝日」の風景画の一対等が静かな佇まいを見せていた。
そして展覧会の参道の最後には、ボストン美術館所蔵の、どちらも一メートル大の二作、ジベルニーの、モネのジャポニズムの表徴である日本庭園をモデルに描いた、枝垂れ柳の下に日本風小橋が掛かった「睡蓮の池」と、その池の水面(みなも)に浮いて咲く蓮を描いた「睡蓮」とが展示され出口を締め括っていたのである。
こうして今年の初詣では、無事終了した。 まずはめでたし、めでたしである。
(二〇一五、一、一五)
追記
年明けのモネの「ラ・ジャポネーズ」と出会った喜びの目出度さは、耄々の老いの盲洋ぶりを見事に招来するものだったのである。「ラ・ジャポネーズ」は、決して今年初めて出会ったものではなく、遠の昔に見ていたものだったのである。
しかも、そのことを、四年前の二〇一一年、『緑』の八月号の「画惚眸美術展回遊記」に、ちゃんと書いていたのに、それさえ、失念していたのだから、唖然呆然、あいた口が塞がらなくなったが、その回遊記では、自分がモネの「印象 日の出」に初めて出会ったのが、「上野の国立西洋美術館で催された『モネ展』で、一九八二年の秋のことだから、もう四半世紀以上前のことになる」と記した上で、
その時、私には、「印象 日の出」の他、ボストン美術館から借り出された「ラ・ ジャポネーズ(日本娘)」に出会えたのが嬉しく、今もそのモデルを勤めたモネ夫人カミーユの、扇を開いて掲げ持つ西洋人らしい白い手首が印象に残っていて懐かしい。
と書き、これに、「注」として、
作品「ラ・ジャポネーズ」は、「印象 日の出」の一八七三年より後の一八七六年に制作されている人物像だが、青みを帯びた灰色の壁に日本の団扇を十数点とりどりに張り付け、その前に、金髪の女性に金銀の刺繍の施された赤い裾長な打ち掛けを着せて立たせた作品で、とりわけその打ち掛けの写実に徹した人物描写に特徴があり、流動的表現にその特質を持つモネの作品の中では異例な傑作だと思われる。
とまで加えていたのだから驚く。
まさしくこれぞ、「痴呆頭脳展覧会見忘録」(ぼけあたまてんらんかいみわすれき)とでも祝さなければならぬ有り様で、改めて追記し称(たた)え直さねばなるまい、メデタシ、メデタシと。
(二〇一五、二、二五)